「森鴎外の錯誤」 ![]() 「生まれ故郷と言っても、鴎外は十一歳のとき上京して以来死ぬまで帰郷しなかったと言われている。東京から遠いからだといっても,左遷されて小倉に転任していた時でさえも行かなかった。よほど嫌な思いでがあったのかな? 一説には、幼い時の津和野での忌まわしい事件、長崎から送られてきたキリスト教徒が改宗を迫られて幽閉、拷問されて36名が殉教死した時に見聞した、故郷の頑迷さや閉塞性を嫌悪していたからだというが、どうかな? 鴎外は臨終の際、友人の賀古鶴所(東京大学医学部時代の同期)に口述筆記させた有名な遺書、<……余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス・・…アラユル外形的取扱イヲ辞ス森林太郎トシテ死セントス墓ハ森林太郎墓ノ他一字もホル可ラス>を托している。 この内容の真意をめぐって,色々論議されてきた。曰く"郷土を想う念からだ"とか、"それなら何故津和野と言わずに、わざわざ石見人と言ったのか" "権力や権威否定の言葉だ" "違う。鴎外は上昇志向が強かった。長州の隣にある、津和野は準長州閥に属する。その縁で、ボスの、陸軍に君臨していた元老山県有朋に近づき献身的に尽くしたが、授爵されなかっことに対する憤激の辞に過ぎない"などだ。 いずれにしても、森林太郎の墓は津和野永明寺にもある。坂崎、亀井歴代津和野藩主の菩提寺でもある。墓碑は東京.三鷹禅林寺にある中村不折書の墓の写しだが、分骨はしてある。 鴎外は俺の好きな作家の一人だが、実は、忸怩たる気持ちも持っていた。というのは、俺の家にとって、ちょっとした因縁があるからだ。 俺の故郷は岐阜、家業は染物屋、手広く商っていたらしい。ところが、祖父が早く死んだため倒産、家は没落してしまった。祖父は日露戦争で召集され、運良く生き残って帰ってきたものの一年足らずで死んだ.。死因は脚気による衝心だそうだ。土地家屋も人手に渡った。幼い子供を三人抱え、祖母の苦労は並大抵でなかったらしい。その長男が俺の親父だが、やはり食うや食わずの生活で苦学しながら学校を出,弟達の面倒を見、若い頃の無理がたたり宿痾の結核で苦しみ死んだ。 気丈な祖母が晩年、気弱になったのか時々愚痴った。その中で、俺は幼心にも疑問に思ったことがあった。"じいさんは兵隊に取られたから"脚気なんかになったんだ"と言うこと。おかしいなと思った。普通は、戦死したとか負傷したとか言うだろう? その疑問が氷解したのは"スキャンダルの科学史"(朝日新聞社発行、科学朝日編)を読んだときだ。 この本は、"日本の近代科学の夜明けから現代まで、主に日本で活躍した科学者を対象に、新聞で言えば社会面で扱われるような事件やエピソードを掘り起こそうと言う企画意図で始められた"とあり、中々面白い本だ。この中に"陸軍脚気大量発生事件 森鴎外"の項がある。(板倉聖宣.科学教育学) 日清,日露両戦役で兵士の間に、特に陸軍、脚気患者が増大、死亡した数は戦死者を上回るほどだった。(日清戦争では22万8000人の日本軍のうち4万人あまりが脚気になり、4000人あまりが死亡、戦死者は453人)。日露戦争当時軍医の上層部にいた森林太郎の責任は重大だという。 当時、脚気は"江戸煩い"といって江戸の風土病のように言われていた。地方から参勤交替などで江戸で生活すると脚気にかかる。その原因は白米の多食。江戸っ子の自慢は"水道の水を産湯に使い、拝搗の米を食う"である。 拝搗の米.丁寧に搗いた精白米だが、脚気予防に必要なビタミンB1が玄米の1/3に減る。すでに日本の漢方医達の間では、"脚気の原因は米食にある"として、脚気患者には米食を禁じ麦と大豆とを食べさせるという治療法があったという。しかし新しい時代の西洋医たちは"脚気は伝染病であり,麦飯が効くなど迷信だ"として問題にしなかった。特に、ドイツ留学から帰ってきた新進気鋭の陸軍軍医林太郎は反対の急先鋒だった。 日清戦争で大量の脚気による病死者を出たことを反省し、兵食を麦飯に切り替え脚気を激減させつつあつた陸軍の兵食はまた元に戻された。林太郎の"脚気が減ったのはたまたま伝染病の流行期がすんだからで、麦飯採用とは関係ない"という言によるもの。しかし、海軍の方はパン食と麦飯食を続け,目に見えて患者を減らしていった。 日露戦争時、すでに陸軍省医務局の高官となっていた林太郎は、前線の多くの将校や軍医達は麦飯が脚気に有効なことを体験し、麦飯支給を提案したのにもかかわらず、ついに採用しなかった。 頑なまでの反対の理由に、当時最高の西洋医学を修めているという彼の自負があげられるが、派閥争いによるという見方もある。 彼の上官だった石黒元医務局長の反対意思に迎合したこともあるが、その後を次いだ小池医務局長、彼は林太郎と東大医学部の同期だが、いち早く軍医の最高の地位,医務局長に上り詰めて、その上、林太郎を小倉に左遷した張本人である。この小池が麦飯の脚気予防効果を認めた。これを知った林太郎は激しく反撃、かねてから林太郎の医学能力と秀才ぶりを認めていた小池は恐れをなし、自信を無くし林太郎の意見のままになった。 哀れ,俺のじいさんは脚気にかかり死んだ。林太郎はその後、軍医の最高穂、陸軍省医務局長に上り詰めた。まさに"一将功なり万骨枯れ"だな。 といって,俺はいまさら恨み言を言うつもりはない。しかし、"舞姫、雁、高瀬船、阿部一族、渋江抽斎"などの名作に一貫して流れる、理想と現実の間で苦悩する人間の哀しさを描いた"鴎外"と出世意欲満々の"林太郎"とが同一人物として結びつかないのだ。 明治44年、鈴木梅太郎が脚気の特効薬として米糠からビタミン(オリザニン)を発見した。帝大医学部の島薗順次郎は、脚気の原因はビタミン欠乏のためと断定した。現場の軍医たちの体験が正しかったことが立証された。 それでも、脚気患者は減らなかった。西洋医学者たちが依然として脚気、細菌説に固執し続けていたからだ。 しかし明敏な医学者林太郎は自分の"錯誤"に気づいたのではないか?自分の思い込みと独善により多くの将兵を死なせてしまったことの罪を後悔したのではないか。確証はないが、そう思いたいね。同時に,彼はこうした犠牲の上で追い求め、築いた栄達や地位、肩書きの空しさをも感じたのではないか。誰もいない墓の前でこんな感慨にふけった 友人に託した彼の遺書はそうした気持ちの表れだと思いたいね。彼が昏睡に陥る前、最後の言葉は"馬鹿馬鹿しい"という呟きだったといわれている」。 < ききみみずく >
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