モーツァルトは毒殺されたのか?

ウィーンでウィンナコーヒーは通じない

名曲純喫茶40年の老舗、有機栽培のコーヒー豆のみ使用、40代サラリ−マン2人、学生時代からの友人

「ここ学生時代と変わらないな、懐かしい!いまどき純喫茶だけでやっているのは珍しい」
「売り物の"キュッシュ"があるからな、遠くからも食べに来るそうだよ」
「それそれ、ここのマスターのフランス.ロレーヌ地方直伝の味」
「ロレーヌ地方では家庭の味だ。パイ生地にチーズ.カスタードなどを流して焼いたもの。小腹がへったときコーヒーを飲みながら味わう。美味いよ」
「帰りに土産にしよう。さて何を注文するかな」
「おれは、キュッシュとウィンナ.コーヒ
「おれも同じものにする。だけど通じるかな?」
「?」
「冗談だよ。じつは、おれこのあいだ、ドイツに出張しただろう、帰りにウィーンによったんだ。モーツァルトに会いたくなってね。そのとき喫茶店に入って名物のウィンナ.コーヒーを注文したら通じないんだ。
仕方がないでコーヒーの上にホイップした生クリームをたっぷり加えたものと説明した。そうしたらウェイターが微笑して"アインシュペンナ"といった。つまり"ウィンナコーヒ−"と言う名前は、和製なんだな。
後で調べたら、"アインシュペンナ""一頭立ての馬車"と言う意味でコーヒーに関係ない言葉だ。その語源は、1,600年代トルコからヨーロッパにコーヒーが伝わった時。
初めはその覚醒効果のため悪魔の飲み物とされ、麻薬扱いで、教会から禁じられていたが、次第に人々の嗜好をとらえ、ウィ−ンにもコーヒーハウスが続々開店し出した。
その当時、ウィーンのいわばタクシーが"一頭立て馬車"。ある御者が"忙しすぎてコーヒーも飲めない"とぼやいたのをコーヒーハウスの店主が聞き、金属の取っ手のついたグラスに香りの高いコーヒ−に砂糖とホイップした生クリームをたっぷり加え出したのが御者仲間の評判になり、やがてウィン名物となった、と言うことらしい」


映画アマデュース

「今、バックで流れている音楽モーツァルトのピアノ協奏曲だろ?」
K482、ピアノ協奏曲22番、映画"アマデュース"の中でモーツァルトがウィーンの町を颯爽と馬車に乗って行くシーンに使われていた。このレコードの演奏はイギリス室内管弦楽団とピアニストの"パレンボイム"だな。
彼はピアノを弾きながら指揮をする。1節ごとに繊細なニュアンスが移り変わり多彩なテクニックを持つ。モーツァルトの化身と言われている。」
アマデュースは面白かった。85年2月公開だったな、確かアカデミー賞獲ったな。そうか、あの音楽は、モーツァルトにしては明るく軽快なので気がつかなかった」
"アマデュース"はモ−ツァルトの洗礼名、"amaは愛、deusは神"ラテン語だ。つまり"神に愛されたモーツァルト"という大変な名前だ。
 舞台劇を映画化したものだが、84年の作品賞と監督賞が"ミロッシュ.ファマン監督"、主演男優賞をサリエリ役の"F.マーリー.エイブラハム"が獲った。モーツァルト役はトムハリス。
 授賞式の時、マーリーがこの賞はトムにやるべきだったと、アメリカ人にしては謙虚な挨拶をして話題になった。彼は長年ニューヨークの売れない役者として苦労したからな。またこの賞の半分は自分を支えてくれた妻のものと言って喝采を浴びていたな。


"子守唄"はモーツァルト作曲にあらず

  モーツァルトのピアノ協奏曲、27曲(うち4曲は他、作曲家、作品の編曲)の中で日本人に好まれるのは、K466.20番、短調の暗さが悲劇的色調の濃い作品にしているが、大部分は明るく、いつも優しく微笑んでいるような曲が多い。
 これについて面白い話があってね。"モーツァルトの子守唄k350"知っているだろう。あれは、本当は、"フリース"という作曲家の作品なんだが、1,796年ハンブルグの図書館でこの曲の古い楽譜が発見された。既にもーツァルトは死んでいたが、こんな美しい曲はモ−ツァルト以外には書けるはずがないと当時の音楽界の有名人が言い出して定説になったと言う話だ。
 モーツァルトの作品は数が多い、オーストリアの植物学者で音楽研究家"ケッヘル(1,800〜77)"が年代順作品目録を作成し、通し番号(k番号)をつけたのは有名だが、その後も現在まで、ヨーロッパでは、新たにモーツァルト曲とされる楽譜が発見され真贋を巡って論争が絶えないらしい。それだけ楽聖として神聖視されているのだな。
 いずれにしても、モーツァルト自身はいつも根アカに振舞っていたそうだ。だが生涯貧乏と病気に悩まされ続けていたからね。本質は淋しさ、哀しさの持ち主だったんだろうな。それが底流にあるから聞く人の心を打つ」
"泣くが嫌さに笑うて候"か!」
「シェクスピアか。道化師の台詞だな?」


毒殺?の噂

「ところで、モーツァルトは本当にサリエリに毒殺されたのかね?」
「映画にもあるが、実際に、1,823年、ウィーンの精神病院でかっての宮廷音楽家、"アントニオ.サリエリ""モーツァルトを殺したのは私だ"と意外な告白をする。
 その前に、モ−ツァルト自身にも、1,791年、彼の死に当たる年、健康状態が良くなかったにかかわらず、オペラ魔笛の仕上げに全力をあげていた時、"レクエイム"にまつわる有名な話が起きる。
 ある日、灰色の服を着た背の高い不気味な男が訪ねてきて、<レクエイム>の作曲を依頼した。謝礼がいいので引き受けることにしたが、その男は依頼者の名前は明かさなかった。
 もっとも、モ−ツァルトの死後、本当の依頼主が明らかになるがね。"フランツ.ヴァルク.シュトウ.パハ"という伯爵だ。彼は愛妻に死なれ、自分の作曲した<レクエイム>で弔おうとしたがそんな才能は無いので名前を秘して依頼した。結局、モーツァルトに死なれ、弟子が引継ぎ、完成した曲を自分が作曲したかのように発表し演奏した。
 この時代、貴族や金持ちが道楽のため、一流の作曲家に曲を書かせ、それをあたかも自分が作曲したかのような顔をして演奏させ得意になるという悪趣味が流行っていたから、その類だったのだろう。
 モーツァルトの方はこれを瞑府からの注文と思いこみ、強迫観念に苛まれる。約束の期日が来ても曲は完成せず、何回も催促されたが、結局半分しか出来ず、後の補筆、完成を弟子ジュ−ス.マイヤーに託して、7月5日午前0時55分、35歳の若さで一生を終えた。作曲中、腰痛と倦怠感をしばしば訴え、"私は毒殺される。この<レクエイム>は私のために書くものだ"といっていってたそうだ。
 それもあって、彼の死後に毒殺説が流布された。32年後、73歳の精神異常の老人.サリエリの告白が精神錯乱の中で行われたのにもかかわらず、本当のように思われたのだな。当時ウィーン中の話題の中心だったことがベートベンの会話帳に書き込まれている。
 実際は、サリエリが、モ−ツァルトの才能が自分を脅かす存在だとして怖れ、毒殺するなどありえない。身分や権力が違いすぎる。モーツァルトは今でこそ大作曲家だが、当時(32歳)、はあっちこっちでトラブルを起こし問題児扱いされ、いつも借金に追われている作曲家、対してサリエリは輝ける宮廷楽長、37歳の働き盛り、しかも終身職で誰にも地位は脅かされない。
 才能でも、サリエリには50曲近いオペラが残されているがいずれもウィーンのみならずパリでも大成功している。もーツァルトもパリで一旗揚げようと行ったが、まったく問題にならなかった
 彼が訴えていた症状は、慢性水銀中毒の症状に近い。ここからも毒殺説がいわれるが、梅毒に感染し治療のため水銀入りの薬を服用していた所為、今日的医学診断では、"リョウマチ熱からくる心臓弁膜症、死因は心不全"に当たるそうだ」


悪妻?コンスタンツ

「映画では、モーツァルトは軽薄で下品なことを言う才子に描かれていたな」
「実像も近いな。彼は身長150pに足りない小男、体格は小さく後年は肥満体、落ち着きがなく神経質、顔には天然痘の後遺症のあばた面、眼は近視、だんご鼻、決して美男子とは言えない。しかも性格は変人」
コンスタンツとよく結婚できたな。」
ウイーンの下宿屋の娘、尻軽女を世間知らずのモーツァルトが押し付けられたらしい。彼は親の反対を押し切って結婚した。
 大変な浪費家、家計は火の車、モーツァルトが一生お金に追われ作曲を余儀なくし、過作による過労で命を縮めたのも彼女の所為だと言われる。死んだときも温泉なんかに行っていて間に合わなかった。
 彼の死は悲惨だった。集まったのは僅か数人の友人と弟子、雪混じりの悪天候のため立ち会うことも出来ず、死体は墓掘人の一人によってセントマルク墓地の共同貧民墓地に葬られた。数日後には正確な場所さえ不明になった。遺骨は行方不明、現在、ウィーンにある彼の墓は空墓だ。
 コンスタンツは夫の死後、"スコア(楽譜)"を全部叩き売っている。後にデンマークの下級貴族と再婚するがその頃に、モーツァルトの名声が高まってくると、ちゃっかり、思い出の記や愛の書簡集を出版して稼いでいる。夫を支えると言う気持ちなど微塵もないわがままで勝手、まさに悪妻の典型だ。
 ところが、モーツァルトは終生彼女を愛し続けたそうだ。金もないのに温泉へ行きたいと言えば金目のものを質に入れ工面したりしてね。
 しかも、モーツァルトの大成功したオペラ、"後宮よりの誘拐"(1,782)"フィガロの結婚"(1,781)"ドンジョバニ"(1,787)"コシ.ファン.トウッテ"など、いずれも結婚後に書かれているからな。これは彼女の功績と言えるかもしれないな」