飲む、打つ、買う 飲む(日本酒仙伝、篠原文雄、読売新聞) 酒に呑まれた小原庄助さんの逸話 会津磐梯山節のハヤシ「小原庄助さんはなんでシンショしもた、朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、それでシンショしもうた」は有名。 この囃子の主人公"小原庄助(本名久五郎)"さんは実在の人物である。白河市の臨済宗、皇徳寺に墓がある。この墓に"会津塗師久五郎、安政5年6月"と記されてある。 彼はもともと会津の塗り師だが道楽が過ぎ、落ちぶれ、白川へ流れていった。そこで、当時、画壇で有名な谷文晁の弟子、羅漢山人という絵師を頼った。 羅漢山人は大酒客として、白川で鳴り響いていた。これが酒の縁となった。 二人は肝胆相照らし、連日連夜酒盛りをし、豪酒のため、ついに庄助さんは頓死、皇徳寺に葬られた。墓は杯と徳利を型取り、表面に「会津塗師 米汁呑了居士」とあり、裏面には「朝によし、昼はなほよし、晩もよし、飯前飯後其間もよし」と刻んである。いかにも酒好きの庄助さんを偲ぶ献辞?である。 庄助さんの死後3年目に、羅漢山人も死んだ。遺言により仲良しだった庄助さんの墓に並んで立てられてある。 酒合戦 文化12年、江戸千住の豪商中屋六右衛門、長寿の祝いで、同家で行われ た大競飲会。画家の谷文晁が検分役、狂歌の蜀山人も同席した。 競飲会は物々しい大杯で行われたと記されている。厳島杯(5合)、鎌倉杯 (7合)、万寿無量杯(一升5合)、緑毛亀杯(二升5合)、丹頂鶴杯(三升) 酒席に集まるもの百余人、左右から一人ずつ出て順々に杯をあげ、柳橋の芸者が3人でお酌をする。検分役が杯と量を正確に見とどける。 1等は"緑毛亀杯"で3杯、七升5合飲んだ男。62歳で三升5合飲んだ男、女でも、一升5合を軽く飲みこなして、酔客を助けて帰った剛の者がいた。変わっているのは、水一升、醤油一升、酢一升、酒一升を芸者の三味線 に合わせて飲みケロッとしていた男。また、万寿無量杯で3杯、四升5合を飲み、腹が減ったといって、ぼた餅を焼いて食べた男。等々 さらに文化14年、両国橋の万屋八兵衛方で大酒大食大会が開かれ、このときの酒の最高は30歳の男、三升入り6杯半、一斗九升5合を飲み干した。 さすがにその場で倒れ、数時間眠った後、目覚め、茶碗で水をガブガブ17杯飲んで元気になった。 酒合戦の記録は現代感覚では信じがたいものが多い。学者に言わせると、江戸時代の酒は水で三倍くらいに薄めて飲んでいたらしい。それでも相当の量を飲んだことになる。酒合戦では死者も出、命がけであった。 酒豪奇談 相撲界には酒豪が多い。70日余も酔い続けたという「永酔記録」を持っている力士がいる。亀の子というあだ名がある先代の"二所ガ関親方"。 現役で"海山"と名乗っていた頃、大阪巡業で風邪を引き、薬代わりに酒を飲んだのはいいが、度を越して酔いつぶれてしまった。そのまま寝ていたが、順番が来て仲間に起こされ、土俵に上がって、相手の力士と角力を取り投げ倒して勝ったが、支度部屋に戻るとまた眠りこけた。 翌朝目を覚ますと、"どうもおかしい、昨日は酔っぱらってしまって角力を取らなかった"。慌てて親方のところへ飛んでいき、平謝りに謝った。親方に"何をとぼけているか、昨日は見事に相手を投げ飛ばして勝ったじゃねえか"といわれて、やっと思い出して大笑いとなった。 天保時代、無類の焼酎好きの男がいた。あるとき居酒屋で5合の焼酎を桝のすみから5口で飲み干したが、それでも飲み足らないような顔をしていたので、飲みっぷりの見事さに感心していた、居合わせた人がもう5合おごると、また5口で飲んでしまった。もう一人の客が面白そうに"もうこれ以上飲めないだろうと"からかうと、"おごってくれるなら、もっと飲みたいと"という。それではとまた5合おごった。すると、また満足そうに飲み干した。 居合わせた客がみんな呆れてみていると、今度は居酒屋の主人が"いくらなんでも、もう飲めないだろう"ときめつけると、"飲ませてくれるというならまだ飲める"という。 主人も意地になり、また5合だすと、うまそうに、5口で飲み、"ああ初めて 好きな酒が存分に飲めた。有り難いことだ"と礼を述べ、酔った風もなく帰っていった。 さて、家に帰って一服しようと刻み煙草を吸い始めると、口のあたりに火が移って燃え上がり、全身黒こげの死体になった。 打つ(とりっく物語、松田道広、ちくまぶっくす、参照) 打つは博打のこと、人間は博打好きの本性を持っている。我が国でも、古来、博打は盛ん。持統天皇の頃、双六博打が盛んで、仕事を忘れ熱中し、家産を失うものも多く、ついに禁断された。白川法王が「朕のの心のままにならぬものは、ただ賀茂川の水と、双六の賽と山法師である」と嘆じられたのは有名な話。天皇家でも双六が盛んだったようだ。 ところが博打にはイカサマガつきもの。カード博打で、トランプに目印を付けておくことはよくやるイカサマ。 裏から見て判別できる目印を付けたカードを"リ−ダー"もしくは"マークト・カード"と呼ぶ。 目印は予め付けておくのと、ゲームの途中で付けるるものとがある。予めの場合は、裏模様と同じ色のインクを使って、裏模様の絵や線に一部修正を加えたり、模様の一部を鋭い刃先で削り取ったり、肉眼では見えない特殊な発光生の塗料でカードバックに数字を書き込み、色眼鏡でみると数字だけ浮き上がって見える仕組み等、ゲームの途中で付ける方法には、爪でカードのふちを押さえて傷を付ける"ネイリング"、包帯や指輪にし込んだピンでカードに小さな穴をあける"ペッキング"、色の付いた粉をひそかにカードになすりつける"ドービング"など、様々なものがある。 カード賭博では目印だけでは見破られ易い。これに手練のカードさばきが加わる。 アカデミー賞映画「スティング」は相棒をギャングの親分に殺された男、ジョニー・フッカー(ロバート・レッドフォード)が友達のコーンマン(いかさま師、ポールニューマン)の助けを借りて親分の大金を巻き上げ、見事復讐を遂げる話だが、予めイカサマカードの手口をデモンストレーションして見せるシーンがある。 いかさま師がフッカーに、カードの一番上のカードを表向きにしてスペ−ドのエースであることを示す。これを元通りに一番上に伏せ、上から順番に、一枚、二枚、三枚のカードを裏向きに配る。次のカードを表向きに出すとなんとスペ−ドのエース。これは確か、最初に配った1枚目のカードのはず。鮮やかな手口に唖然とするフッカー。 これは、「セカンド・ディール」という手法、一番上のカードを動かさずにその下のカードを動かす手練の技、同じく、一番上のカードを配ると見せて、一番底のカードを、相手に気づかれずに素早く抜き取り配る方法を「ボトムディール」。この常習賭博師をしゃれて"サブウェイ・ディーラー"という。いかさま師は自分の欲しいカードを底に忍ばせていることが多い。 しかし、これは難しく危険な技法らしい。底のカードはゲームの途中、何かの拍子で相手に見られる確率が大きいからだ。 買う 「酒は燗、肴は刺身、酌はたぼ(女性)」 酒宴に女性がつきもの。これは古代の信仰的な習わしから派生している。古代には、訪れ来た"まれ人(遠来の神の意)"を女性がもてなした。 記紀、万葉などにも女性が訪れ来た"まれ人"(ここでは客の意)に酒を勧めて、もてなす事がしばしば出てくる。すでに、職業として"遊び女""遊女"が誕生していた。 平安朝期には白拍子が盛んだった。清盛の寵を受けた妓王、仏御前など、白拍子だった。義経の母(常磐御前)、妻(静)も白拍子、遊女といっても売り物は教養、知識にあった。「色を売らず、媚びを売らなかった」と記録にもある。高級で自由で人々に尊敬すらされていた。 遊郭の発生も古く、平安朝に書かれた、大江匡房の「遊女記」にすでに記述がある。淀川河口の神崎、江口、瀬戸内海の室や東海道の大磯など、交通上の要地は遊女町として栄えていた。 鎌倉時代には「遊君別当」という官職が置かれ公娼制度が出来た。室町時代に入り足利義晴が「傾城局」を創設(1528)、遊女一人に脂粉税として年銭15貫の相当な額の税金を徴収した。 しかし本格的な遊郭は豊臣秀吉が天正13年(1585)に大阪に、次いで天正17年(、89)京都柳町に傾城町を作ったのが最古。江戸吉原は元和3年(1617)、庄司甚右衛門が公許を得て、日本橋葺屋町に遊女町を創設、後浅草千束町に移された。移転前を元吉原、移転後を新吉原といって区別された。 江戸時代(元和年間)、遊女の値段は京都島原の大夫、一晩の揚げを代現代の貨幣価値になをすと、20万円強、この他祝儀、飲食代、その他様々な掛かりでその3〜4倍を要したというので、合計80〜100万円かかった。 このクラスの遊女は立ち居振る舞いから、書道、華道、茶道、和歌、文学、心映えなど、一流だった。 遊女の全部が大夫ではなく、江戸中期、享保の頃まで新吉原の遊女3000人のうち、大夫は4〜5人しかおらず、会うには、殿様でも、大金持ちの商人でも5〜6ヶ月前から手配しておかないと会えなかった。手配しても、会うかどうかは大夫が選んだ。趣味が悪い、教養がない、顔が気にくわないなど。 大夫に客にしてもらえるかどうかは社会的地位と名誉にも関わる問題だけに、客の方も趣味や教養を洗練させる努力を積んだ。遊郭は男を磨く場でもあった。 大夫のみならず江戸末期の中級の花魁でも「わちきは源氏を写本で読みやンした」というように原典で読みかなしていた。宝暦年間、吉原のハイクラスの遊郭"角海老"の遊女、大夫の次クラスの年収は2,300万円、うち衣装代1,800万円と記録にある。 < ききみみずく >
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