『江戸時代の旅の話』

忠臣蔵 変事の報 江戸〜赤穂 何日間で届いたか

「tvが忠臣蔵を取上げ出したな」
「昔から、映画演劇、興行の世界で”苦しい時の蔵頼み”といって忠臣蔵をだせば間違いないからな」
「この間、TBS系のtv番組”道浪漫””忠臣蔵の道”というのやっていたが、面白かった。元禄十四年(1701)3月14日11時、勅使御馳走役.浅野内匠頭が松の廊下で吉良に切りつけ、一関の領主・田村右京大夫屋敷(いまの西新橋、以前は田村町)で即日(午後6時)切腹、その一報を早水藤左衛門と萱野(かやの) 三平 が早籠で国許赤穂に知らせた。何故、乗り物を速い馬にしなかったかというと、当時、綱吉の生類憐みの令が厳しく長時間馬に乗れなかったこともあるが、用意してある宿場が限られており長距離の乗り継ぎに不便だということだったらしい。これをtvで再現してみようとした試みだ。
 当時、江戸〜赤穂間、620キロ(東海道53駅、日本橋から京都三条まで百二十五里二十丁"約500キロ"京都から山陽道に入り、姫路から赤穂まで四十里"約120キロ")を3月15日に江戸を出立し不眠不休の強行軍で走りつづけ、19日の早朝、到着したというから、四日間で走り抜けたわけだ。
 tvの再現では、街道各地のボランティアの人達、延べ1、100人が籠をかついだが、途中自転車や船に乗ったりはしたが、なんとか五日間で完走した。伝送役の人は食事ものどを通らず、途中ドクターストップがかけられ点滴をうけるほど疲労しきっていたな。もう二度とやりたくないそうだ。それにしても昔の人は強壮だったんだな。」



東海道五十三次の日程と旅費

「東海道は10日路といって、幕末期、江戸日本橋〜京都三条大橋間百十五里二十丁、メートル換算502キロを10日で歩けることになっっていたが、実際は、風雨や川留などの障害があり、14泊15日くらい掛かったらしい。それでも一日当たり平均33.5キロ歩く勘定になる。現代人にはとても真似の出来ない健脚ぶりだ。」
「飛脚は早かったらしね」
「江戸時代、公文書のリレー運送で、江戸〜京都間60時間以内という定めがあった。一時間10キロのスピードだ。町飛脚は大阪、京都、江戸の飛脚仲間が月に三度の定期便をだしていたが、到着期限が6日間だった。これが3都飛脚、3回だから3度飛脚ともいわれた。彼らがかぶった笠が3度笠だ。」
「旅の費用はどれくらい掛かったのかな?」
「現代の金額に換算するのは難しいが、米の値段を基準にして比較すると、幕末、一両は6万2000円くらいになる。一両=四分=十六朱=六千二百文=銀六十匁だから、一文10円くらいかな。宿泊料一泊100〜300文昼食やお茶代で一日50〜100文、酒一合(180ミリリットル)30文、因みに鰻丼150文、てんぷら蕎麦32文、掛け蕎麦18文、ゆで卵一個20文は当時、貴重品だった。初鰹一匹1両2分、現代の貨幣価値で7〜8万円はまさに"かかあ質においても食べねばならぬ"江戸っ子の意気地と見栄を象徴する食べ物だった。馬、駕籠一里当たり100文、草鞋(わらじ)一日1足16文、三日に一回の月代(さかやき)が30文、面白いのは大井川の川越だ。水量によって料金が違う。股下48文、腰下、52文、肩までつかると94文、連台担い手4人300文。旅の慰め飯盛り女、名目は給仕女だが実質は娼婦、この相場が昼400文、夜600文などなど、往復で3〜4両掛かったらしい。当時熟練の大工の月収が2両くらいだから、庶民にとって一生に一回出来るかどうかの大旅行だったのだな。」

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