聞き書き、抜き書き、落書き

アララギ(阿羅々木)

 針葉樹、別名"1位の木"神官の使用する「笏」の用材として珍重された短歌雑誌 "アララギ"は1908年、千葉県豊岡村植谷の山林地主、"蕨 真一郎"方から、最高の1番を目指して"阿羅々木"として創刊
翌年、伊藤左千夫を中心に編集されたときから"アララギ"と称し、その後島木赤彦、斎藤茂吉、土屋文明らが中心となるにつれ、文字通り、我が国、歌壇の主流となった。

「黒田節」の作者、吉村杏村

 福岡黒田藩の槍の指南役。本居宣長門下、黒田勤王の草分け。
神功皇后が応神天皇を産んだとされている筑紫の"宇美神社"が荒れ果て、土地の"栄屋"という酒屋の主人が資産を出して復興した。
 これに感激した彼が、親しくなった主人のために、店の売り物"早見川"という酒の宣伝に一役買い、いわばCMソングを創った。これが黒田節の由来。
  「酒は飲め飲め飲むならば
   宇美の栄屋に立ち寄りて
   早見川という酒を
   桝の隅から二合半」
神楽"越天楽"の調べにのったこの曲がもじられて、"筑前今様(流行歌)の黒田武士"としてもてはやされた。九州で昭和3年、ラジオ放送が始まった時、"黒田節"に名前を変え、旋律を明るく、伴奏も手拍子から楽器演奏に変え放送したところ大変な反響を呼び全国的な愛唱歌となった。

「往生際の達人」(桑原稲敏)新潮社
 〜芸人たちの逝き方を集めた面白い本〜

 「6代目菊五郎、亡くなる前、病床で"カレーが食いたい、ワインが飲みたいと駄々をこねた。付き添いが"それはいけません"とたしなめると、"いけねえたって、死ぬのは俺なんだからいいだろう。臨終が迫って、親族が枕元ですすり泣き始めた。菊五郎、低い声で、"……未だ早い"
 "まだ足りぬ、踊り踊りてあの世まで"菊五郎の辞世

 「声優の徳川夢声、77歳で亡くなる前の夜、看病の夫人にポツンと言った。 おい、いい夫婦だったな。もう寝ろよ」

 「落語家の柳家小半治、酒、博打、覚醒剤、借金、で妻子を泣かせた。彼が亡くなったとき、噺家仲間が口をそろえていった。"小半治という奴は、死んで初めてかみさんや子供を喜ばせたよ"」

 「都々逸漫談の柳家三亀松、酒好きで有名だが、胃癌の手術をうけ酒は厳禁 そこで点滴の管を指さして、看護婦に怒鳴った。"酒が飲めねえんだったら、このゴム管に流し込んでくれ"」

 「古今亭志ん生、71歳の時脳溢血で倒れ、半身不随になったが、入院中も酒を飲みたいと駄々をこね、おかみさんに"お医者さんがいけないと言うから駄目です"と断られ"お医者さんの言うことは聞けて、亭主の言うことは聞けねいのか。女房の立場で、亭主より医者の方が大事か!"
 弟弟子の9代目鈴々舎馬風が59歳で没したとき、りん夫人に、"みろやい馬風を……あんな頑丈だったのに、具合が悪いからって酒も煙草もやめて養生したら、死んじまったじゃねいか」

 「俳優の木村功、食道癌でなくなる数日前、梢夫人が"功、大好き"と耳元で囁きかけると、少し目を見開いて、"ばかあ…・"木村梢著"功、大好き"という本の題名はこのエピソードに由来」

 「奇術師の伊藤一葉、胃癌で入院して酒を絶たれた。亡くなる直前までつけていた日記に、次のような言葉で綴っている。"残りの人生をずっとシラフで生きていくのはつらいな……"」

 「往年の大女優、グレタ・ガルボ、死ぬまで独身を通したが、彼女と親しかった知人が"生涯で後悔することは"と聞くと、溜息まじりにに語った。"結婚しないで私はなんてばかだったんでしょう。これまで見た中で最も美しかったものは、腕を組んで歩く老夫婦でした…・"」

城山三郎の小説"毎日が日曜日"の一節、"死亡記事が一番興味があるんや" "興味?""そうや、みんな、いくつぐらいで、どんな死にざましたか、興味がつきんのや"
 "…………" 
"えらそうなこというたやつも、結構なくらししていた男も、みんな、先に死んでいきよる。あいつも死んだか、くたばったか。ごくろうさんとおもうこともあれば、ざまみろという気にもなる……・"」

遺言、"葬式無用、弔問供物固辞すること。生者は死者のために煩わされるべからず"(梅原龍三郎) "コレデオシマイ"(勝海舟)」


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