聞き書き、抜き書き、落書き

節分の豆まき

 豆まきの掛け声は、一般には「鬼は外、福は内」だが、東京の亀戸天神は「鬼は外」のみ。豆まき行事は本来"鬼やらい"と呼ばれた儀式。疫病を追い払う目的。したがって"鬼は外"だけを連呼する方が本来の目的に添っているというもの。
 ところが、日光、成田山新勝寺では「福は内」を連呼する。この世は仏慈悲の世界。鬼などは存在しない。それに、仏教では""といった事物を対立的に捉えるのを嫌う。というのが理由。
 また、奈良の吉野山、蔵王寺の掛け声は「福は内、鬼も内」と勇ましいもの。
鬼など怖れるに足らない。むしろ積極的に呼び集めて、お経の力で鬼を改心させる。それに、鬼を追っ払ても、自分のところは良くなるが、その鬼が、他人のところへ行って悪さをし、不幸にする。そんなエゴイズムは仏の教えに背くもの。が理由。

つぶやき
 いっそ、三ヶ月に一回、それぞれの掛け声で豆まきやったら御利益あるでそやけど、家の婆ちゃんいつも言うとる。"神も仏もあるもんか"。こんなときどないしたらいいんや?

対という字

 「」という字は面白い。 「たい」「つい」という、読み方によって、全く相反する概念になる。「たい」と読めば、"対立""敵対"という切断された意味になり、「つい」と読めば"一対""二対"と組を作り、一揃い、共存の意味を持つ。
 何故、一つの字で相反する意味を持たせたのかは定かでないが、"昨日の敵は、今日の友"というように、離合集散"無常"の世を"表意"したものだとか?
 人間関係は、状況に応じて、"たい""つい"がめまぐるしく入れ替わるので、その時々に応じて読み方を変えればいいとか?いい加減な理由かも知れない。
 ところが、こと結婚となるといい加減ではすまされない。夫婦の有りようのの問題になる。
 キリスト教では、夫婦について、「カトリック」と「プロテスタント」と教義が異なる
 "カトリック"では夫婦は「つい」とみなす。男も女も本来、半人前である。男女が結合して一人前になる。それ故、夫婦は互いに協力,補完しあい、それぞれの役割を分担して理想の家庭をつくるべきだ。したがって、離婚は絶対認められない。これに対して、
 "プロテスタント"では夫婦は「たい」である。男も女もそれぞれ独立した一人前の人間であり、男女は平等である。結婚により、互いに独立した人格が結びついて共同で家庭を築いていくものだ。したがって、どちらかが人格の尊厳を傷つけるようなことをしたり、共同作業を損なうような行為をすれば離婚は認められる。という立場である。
 因みに仏教では夫婦は「縁」で結びついたものとしている。

つぶやき
 だれかがいっていたな"結婚はしょせん社会的に認知された男女の性的関係"だとね。そういえば、近頃、結婚しても、子供を作ることは長けているが、育て、教育する術を知らない、猿より劣る夫婦がやたらに多くなった。

数え年、満年齢

 生まれたその年を一歳とし、以後正月ごとに一歳ずつ増やして数える年齢、「数え年」は死語になりつつある。誕生日を迎えるごとに一歳を加える「満年齢」が世間の主流。
「数え年」では母親の胎内にいる間も人間の命と認め、一歳と数える。ところが、「満年齢」では、妊娠中の胎児には年が与えられない。いいかえれば人間扱いにされていないことでもある。人間でないから一定の条件下で、中絶が認められる。

枕経

 もう何の反応を示さなくなった"死んだ"人の枕元で上げるお経。今は儀式的だが、本来はこれからあの世に行く人に、道筋の案内や心得などを教え、安心させるために唱える。脳が反応しなくなった"脳死"即、"死"と考えない。少なくとも。枕経の間は未だ生きているとする仏教の考え。


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