「信長の論功行賞」 "桶狭間の戦い"といえば、寡兵の織田信長が圧倒的勢力を持つ今川義元を奇襲戦法で破り,天下統一の第一歩を踏み出すきっかけとなった有名な戦いだが、戦後の論功行賞一位に選ばれたのは、義元の首をとった服部小兵太とか毛利新助ではなく、情報将校.梁田正綱、彼は地域に密着した情報を進言したからだ。 この戦いは本隊を無視して、一挙に義元本陣に切り込み首を取るしか勝ち目はないと思っていた信長の一番欲しい情報は、昼食事、進軍を停止した時、義元本陣はどこで取るかという事である。 狭い狭間で大軍は面展開できない。何キロにわたって延々と一直線に連なって進軍する。その中で本陣を見つけ出すのは極めて難しい。苛立つ信長に正綱は"義元は田楽狭間(桶狭間の北1.5キロ)で食事を取るに違いない。何故ならば、田楽狭間のほうが桶狭間より裕福で料理の質が高い。また盆地なので、それほど大勢を収容できない。大将と高級将校達が休憩できる程度、さらに明日は雲行きから見ると昼時に天気は大荒れになるだろう。" 正綱はこの地区の出身で,地形や天候に熟知している。信長はこの言を入れ、田楽狭間裏の太子が根という小さな丘に陣を張り、嵐を待ち突入して念願の首級をあげた。 この戦いは,正確には桶狭間でなくて"田楽狭間の戦い"である。また巷間いわれているような一か八か,猪突猛進の戦法ではなく十分情報を取り,分析し,必勝を期して臨んだということである。戦国大名で信長ほど情報を重要視した者はいないといといわれる。信長軍団が強かったのはいわば情報武装し自信を持って戦いに臨んだからに他ならない。 < ききみみずく >
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