茶席は何故四畳半

 お茶はもともと、薬用として、利尿剤や眠気覚ましとして服用されていた。
特に「座禅」を修行の根本におく「禅宗」では、なくてはならないものとされていた。座禅中、眠ってしまったら意味がないからである。
 しかし、お茶を飲むといっても、これも修行の内で、「茶礼」といって厳粛な礼儀作法があった。そこから「茶道」が生まれた。
 したがって、「茶禅一味」「茶道」「禅」は不即不離の関係にある。禅の理念は茶道に通じ、茶道は禅を基盤にしている。
 茶の祖、「千利休」は当時一級の参禅者だった。利休は「宗易居士」と呼ばれ、茶と禅とを結びつけて、禅の民衆化をはかった。
 「利休」とは"名利ともに休す"という意であり、「宗易」は茶名である。頭文字"宗"は利休が参禅していた京都紫野の臨済禅の名刹、「大徳寺」からもらったもの。当時大徳寺から茶名をもらうということは大変な名誉だった。
 今でも、千家では世を継いだら、大徳寺に一度、入門する形をとっている。
禅僧を「方丈」さんと呼ぶ。「方」は"四角"、「丈」は"一丈"で、「一丈四角」 に畳を入れると"四畳半"になる。また「丈」は人の身の"丈"のこと。
 四畳半をもって人間一人の住む部屋とする。「方丈」さんとはこの四畳半に住む人のこと。これが茶席の単位となった。
 一人しか住めない窮屈な部屋(枠組)に客と入って、無心になることは難しいが、修行すればこの境地に到達する。四畳半という"枠"の中に入れて"枠"にとらわれない無心の世界を作る。いわば、茶は形から教える「在家道」である。

茶の建物、数寄屋

「数寄」とは割り切れない数字のことを言う。「1,3,5,7,9」である。
人生はなかなか割り切れるものではない。そこに、人間の悩みと苦しみがある。
茶の「数寄屋」は苦しみや悩みを解脱する場所である。茶人が"数寄者"と呼ばれるのもこれからきている。

能の舞台の基本単位、四畳半

「能舞台」は"三間四角"もっとも古い茶室、銀閣寺の「東求堂」と同じ寸法。
四つに割ると、"四畳半"が四つ出来る。この中で「幽玄」を表現する。
「幽玄」とは禅的なもの、禅は幽玄的なもの。「幽」は"かすか"、「玄」は"黒" である。"黒"は全て(一切)の色を集めた色である。何色か判定がつかない。
 夜、黒い闇が訪れる。一切はあるが、眼に見えない。見えないけれど一切は確かにある。しかし何であると指し示すことは出来ない。禅でいう「いわれずの世界」。これが玄(黒)であり、幽(かすか)の世界。
 では動きを極端に押さえ、喜怒哀楽は面の上げ下げだけで表現する。泣くときは頭を下げるこれを"曇らすと"いい、喜ぶときは顔を上にあげる。これを"照らす"という。禅の精神(幽玄)を戯曲化し(能)、表現する舞台として、禅の修行に関係深い、「三間四角」の空間が選ばれた。

竜安寺、虎の子渡しの庭

 庭に石を立てるのは禅僧が始めたもの。「立石僧」といって石を仏とみる。
つまり、庭に仏を祀った。
 元来、庭は回遊式ではなく、"鑑賞"といって眼でみるものである。回遊式の庭は「庭園」という。"園"たんぼ、遊び場という意味がある。
 多くの寺院の"庭園"極楽思想が象徴化されており、庭園を回遊することで、あたかも、極楽浄土で遊んだ心地にさせる優美さを備えている。
 禅寺、竜安寺の「石庭」は鑑賞庭だが、厳しい禅の思想が迫り、見る者を粛然とさせる。
 この庭を何故、「虎の子渡し」と呼ぶのか?石が虎の形をしているからではない。これも禅の思想から由来する。
 この石は「15」あるが、どの角度から見ても「14」しか見えない。配石の妙だが、この"15""14"という数が禅的な意味を持つ。
 数字は無限で切りがないが、古来、中国では「15」をもって数字の最終とする思想があった。これは太陰暦"月の満干"と関係がある。月は15日を周期として満ち、欠ける。
 したがって、"15"の数字の中に全宇宙(人生含)が包摂される。これは、7,5、3の数字に分割されるが、いずれも割り切れない奇数(数奇)である。宇宙や人生の割り切れなさを現わしている。
 「15」に到達すると欠け始めるが、「14」は未だ欠けない数字である。最終の15を目指す努力、修行の過程であり、希望、願望がもてる数字である。
この配石が「虎の子渡し」と呼ばれるのは、仏教説話にある"虎の親子の努力"を現わしているからだといわれている。
 「昔、虎がある島にいて、子供を三匹持っていた。ところがそのうちの一匹は、島の人を食い殺すどう猛な豹で、人々の怒りを買い、退治されることになった。虎の親子は隣の島に逃げ出さざるを得なくなった。
 逃げ出すときに、子供はくわえていくことにしたが、虎の子は2匹、親虎が一匹くわえて渡っているうちに、島に残されたもう一匹は豹に食い殺されてしまう。
 親虎は3匹をともに安全に渡すため、まず最初に、豹を連れて行く、戻って、虎の子を連れて行き、帰りに豹を連れ戻す。次に豹を残して、もう一匹の虎の子を連れて行く。最後に残された豹を運んだ。
 つまり、親虎は3匹の子供を安全に渡すために4匹分の努力をした。いいかえれば、見た目では3回の努力にしか見えないが、本当は4回の努力を必要とした。
 竜安寺の「石庭」の石は15あるのに14しか見えない。見えない一つの石は人間に、14で満足することなく、15を目指して、絶えざる修行と努力を怠ってはならないことを示唆している。
 しかし15に到達しても人生はしょせん割り切れないが、究極にそれを知ることが悟りに通じるというわけだ。


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