|
プログ「怪異、本能寺の変」 如何お暮らしですか?あついですね!! そこで暑さ凌ぎに、稲川淳二ばりに、怪異?清涼(霊)?談一つ送ります。 小生、京都に出かけました。丁度、菩提寺で亡母の年回もあり、これを機にと思いたったわけです。時は3月半ば、京都では未だ冬。その時に体験した出来事です。 京都へ行く場合、何か「テ−マ」を決めて、まわります。何しろ1,000年王城の地、歴史が至る所にあり、とても短日間の日程ではあれもこれもというわけにはいきません。 今回の「テーマ」は、「光秀」にしました。 小生、「光秀」には、かねてから深い思い入れと、関心があります。実は小生の家系は、遠祖が岐阜県恵那郡、岩村遠山の一族で、光秀の明智遠山とは姻戚関係にあります。 注、光秀は、岐阜県可児明智生まれ。 戦時中は嫌な思いをしました。何しろ「忠君愛国」の時代ですからね。逆賊、主君殺しの光秀は教科書でも大悪人として登場します。 職場でも、光秀の子孫などというと、いつも反抗ばかりしている小生のこと、上司から、あらぬ「ロイヤリティ」が疑われることを怖れ黙していました。これは冗談 最近、ようやく、小説、TVドラマ、歴史番組などで、光秀の復権が為されつつあります。 “沈着、思慮深い教養人”“信長が一番買っていた有能な武将”“卓越した治世” “部下思いの名君”“女性関係は生涯、苦楽を共にした妻一人 、子煩悩で家庭を大事にした家庭人”“朝廷崇敬の勤王の士”“信長を襲ったのは、皇室廃絶を企んだ、誇大妄想狂に対する危機感、あるいは朝廷側の陰謀”“天皇家が存続し今日あるのは光秀の功績”など、など。 “知性と教養、思慮深く、卓越した軍略を持ち、信長すら一目置いた光秀ほどのものが、自分の破滅を十分予見出来たはずなのに、何故、あえてその道に踏み出し、信長を襲ったのか?”子孫ならずとも、興味と関心を引きつける問題です。これまでに、歴史家、小説家、評論家なども、いろいろ取りざたし、見解を述べ、議論しています。 学問の分野でも、人間関係論、心理理学、戦略論、天皇論などいろいろなジャンルで問題提起や議論が出来そうです。 今、NHKで大河ドラマ、司馬遼太郎{山内一豊の妻}放映中ですが、視聴率、“苦しいときは信長、秀吉、家康頼み”で、この誰かを主人公にするとそこそこの視聴率が稼げるというわけです。 案の定、全員顔を揃えています。しかし、今回の主人公は、山内一豊というマイナーな戦国武将の妻、「千代」です。 余談ですが、司馬遼太郎の描く「千代」は実にいい女で、この本の読了後、しばらくは茫然とわが妻を顧み、溜息をつき、幻の千代にあらぬ恋をしたぐらいです。 聡明で、優しく、それでいて芯が強く、凛として、時には夫の優柔不断を叱咤するが、普段は、あくまで夫をたて、膝枕で夫の疲れを癒す、夫の危機に対しては、我が身を捨てて当たる。 その上、好色な秀吉が本気で口説くほどの、奈良、西郊、秋篠の里に、ひっそりと佇む秋篠寺の技芸天立像(奈良時代、重文)を思わせる艶冶な姿、現代ではとても望めない夢幻のような女性です。 この技芸天 にまつわるエピソードがあります。 「ある工人の若者が、一目見て恋いこがれ、毎日通ってきた。ついには食べ物も喉を通らず、衰弱する一方になった。 ある晩のこと、若者が衰弱した体を堂内に横たえていると、艶やかな技芸天が姿を現し、若者にいった。“貴女の情にほだされました。今宵一夜、貴女の妻になりましょう”と若者の側に、そっと身を臥した。 若者は夢中でその香しい体を抱きしめた。ついに思いが叶ったのである。 翌朝、堂内には歓喜の笑みを浮かべた若者の亡骸が横たわっていた。不思議なことに技芸天の体は、しっとりと濡れていたという」 “男が書いた小説だから、憧憬する良い女が描けた、もし女性作家なら、女性としての本性や我が身に照らすと、恥ずかしくてとても書くことは出来ない”ある批評家の言葉です。 ドラマでは女優仲間由紀恵が好演していますが、男を包み込むような優しさと、艶冶さが不足しているようです。まだ、色事の経験不足の所為でしょう。 このドラマで光秀は、板東八十助が演じ、主君信長の全てを抹殺する冷酷さに、心ならずも従わされ、己の知性と優しさとの相克(ミスマッチ)で、悩める姿を見せていました。 最近評判を呼び、ベストセラーになった「信長の柩」(日経、加藤廣)と「秀吉の枷」(上下)も、この問題を中心に書かれています。 著者の加藤氏は、歴史家や小説家ではなく、中小企業金融公庫調査部長から、山一証券経済研究所顧問に転職した調査の実務家で、この本は、調査能力を駆使して、資料を集め、分析した結果ということで、結構、面白く、改めて、本能寺の変、信長、光秀の関係、それに絡む秀吉、朝廷のことに、興味を深くしましたました。 ところで、大河ドラマ、本能寺の変では、館ひろし信長が、襲い来る光秀勢に、欄丸が弾を込め、差し出す鉄砲を乱射、大笑いさせてもらいました。まあ、ドラマ設定上の、一種のお遊びでしょうが。 光秀は必死に探しても、信長の遺体が見つからず、焦っていましたが、ご承知のように、昔から、そのナゾを巡って、様々な推論、議論が為されているます。 小説「信長の柩」では、「その遺体については、本能寺(秀吉が建立した、河原町にある現在のではなく、三条堀川の元本能寺、跡地に石碑が建つ)に抜け穴があり、当時、隣接して建てられていた南蛮寺まで続いており、いざとなれば脱出出来た。だから信長は安心して、わずかな手勢で宿泊していた。 ところが、脱出時、何故かその抜け穴は塞がっており、穴の中で、信長、蘭丸などの側近らは立ち往生し、酸欠状態で倒れ死亡した。 騒動のほとぼりが冷めた後、異母弟で京都阿弥陀寺の高僧、清玉上人がその遺体を密かに回収し、阿弥陀寺の墓地に埋葬した。(阿弥陀寺は信長が唯一帰依していた寺) その後、秀吉が中国からの大返しして、光秀を破り、信長の葬儀を大徳寺で取り仕切るが、肝心の遺体がないので、木像を柩に安置して行ったという逸話があるが。 実は、その前に、阿弥陀寺に掛けあって遺体の所在を糺したが、清玉上人は応ぜず、やむを得ず木像を作らせた。その後、隠密裏に清玉上人を幽閉し、毒殺した」と述べています。 さらに、「秀吉の枷」で加藤氏は推理します。 “何故秀吉が、遺体が阿弥陀寺にあるのを知っていたのか?”“何故、高僧で朝廷からも一般の庶民に到るまで崇拝されていた清玉上人を暗殺させたのか?” 結論は、「秀吉は抜け穴のことを知っていた。何故ならば、秀吉が信長に命じられ、実際に掘ったのは、当時の金山採掘、土木の専門家、秀吉腹心の前野将右衛門、これを塞いだのも、秀吉の秘密裏な意を受けた将右衛門。 それに、秀吉は光秀が信長を襲うことを知っていた。もしくは使嗾した、彼とは、叡山焼き討ちの時、信長の命に反し、多数の人を助け、今で言えば国宝級の宝物、(特に最澄手彫りの仏像)を運び出したという秘密を共有し、肝胆相照らす仲だった。 だから、予め、いざとなったら、駆けつける準備をしており、あんなにも早く大返しが出来た。 勿論、信長の異母弟、清玉上人も抜け穴のことを知っていた。信長は身内と言うだけではなく、高潔な清玉上人に帰依していたので、教えていたはず、だから秀吉はしつこく遺体の返還を迫った。 秀吉は清玉上人が遺体回収時に、抜け穴が塞がれ、信長主従が立ち往生して死んでいる状況を見たことを確信した。 こんなことが外部に漏れ、信長の遺児、信雄(次男)信孝(三男)や、反秀吉派の武将、柴田勝家などに知られたら大変なことになる。その告発が自分の命取りになることを怖れ、上人を幽閉し、後に暗殺した。 さらに、将右衛門も、関白秀次失脚のどさくさに、守り役の責任を問われ、連座して殺された。まさに知りすぎた男の末路に他ならない」ということです。 以上、小説のストーリーを掻い摘んでみましたが、本能寺、南蛮寺間に「抜け穴があった」とは新しい視点です。信長が何故、積極的に南蛮寺の建立を援助し、南蛮人を庇護したのかという理由もわかるような気がします。 さらに、最近、某局で、歴史仰天事実ということで、“信長は光秀が来ること知っていいた。何故ならば彼が呼び寄せたからだ”という検証番組を放映しました。 つまり、「当時信長は安土に壮麗な天守閣を築き、そこに君臨する自分は神に近い存在であり、天皇より上位である。だから朝廷から任命される官位などは無用だとし、ことごとく拒否した。それどころか当時の天皇(正親町天皇)に退位を迫り、いずれ自分が取って代わろうとしていた節がある。そのため、一層の圧力をかける必要があり、光秀に御所を取り囲むことを命じた。 だから、彼の軍勢15,000人以上が京に入って来ることを知っており、悠々と茶会を開き、その夜、寝室でくつろいでいた」 論拠として、「15,000に以上、甲冑をつけた軍勢、軍馬が押し寄せたら、その物音、騒音は、音を遮るほどの高い建物がない当時の都大路では、すざましく、現代の集団暴走族の騒音などの比ではない。15キロ以上先からでも響いて来たことだろう。 この物音、騒音では、神経質な信長のこと、とても、間近に押し寄せるまで寝ていられる状態ではない、すでに起きていて、もし夜襲だと判断したら、直ちに逃げ、隠れる時間的余裕は充分にあるはずだ。 それが逃げ隠れもせず、むざむざ座して待ち、討ち取られたのは、かねてから、手はず通り光秀が入ってきたのを知り、さて、このあと、朝廷に対して、どう臨むかなどを考えていたのではないか」と、騒音の度合いを専門家に実験させ、検証していました。 以上が、怪談に到るイントロです。 さて肝心の怪異?の件 というわけで、光秀の足跡を訪ねる旅で、問題の「阿弥陀寺」へ参りました。境内墓地の北の奧に信長、長男信忠の墓と森欄丸ら家臣120人余の墓があります。荒涼とした気配が漂っていて、連れて行った2歳半の孫娘が突然、大声で嫌だ嫌だと泣き出し、車から降りようとしない。 普段、孫娘は活発で、男のシンボルを母親の胎内に置き忘れてきたのじゃないかと思うぐらいお転婆娘、特に窮屈なのが大嫌い、車のチャイルドシートにくくりつけると、泣いて嫌だと駄々をこねる。 車が停止すると早く外へ出たいと、手足をばたばたさせて暴れる。それが、逆に外へ行きたくないと泣くので、不思議なことがあるものだと思い、仕方がないので、息子夫婦を残し、私と家内と妹3人だけがお参りしました。 信長の墓碑の前に佇むと、それまで晴天だったのに、突然、突風が吹き上がり、大粒の霰が降り出し、われわれ這々の体で門前に駐車した車へ逃げ込みました。 ところが、息子夫婦が“何事?”不思議そうな顔をしたので、様子を説明すると、車を駐車している付近には霰など降らなかったといいいます。 さらに不思議なことは、その時、携帯電話のカメラで撮ったはずの写真が一枚も写っていないことです。写真どころか、電池残量が無くなっていました。 携帯電話は最近買い換えた一番新しい機種ですし、電池も朝、充電し、満タンにしたはずなのにです。なんとなく薄気味悪くなり、一同、“光秀の縁者の子孫がお参りしたので、信長が怒ったのに違いない”と、首をすくめ、早々に引き上げました。 その後、坂本へ逃れる光秀敗走ルートといわれている、淀川右岸、久我縄手から、伏見方面へ、途中、勝竜寺城跡(娘ガラシャが嫁いでいた、淀川縁の細川の城)、伏見桃山北から、土民に襲撃され深手を負わされた伏見小栗栖(桃山ゴルフ場付近)を通り、居城坂本城跡がある近江へ、その晩は、琵琶湖ホテルに宿泊。早朝のこと、小生、生まれて初めて金縛りに遭いました。 金縛りなど言う現象は既に科学的に原因が証明されています。 つまり、脳の覚醒と体の筋肉の覚醒の時間的ギャップ(タイムラグ)によるもので、脳の方は覚醒しているのに、筋肉が未だ、それに即応して動けないので、金縛り状態になるるというもですが、問題は、孫娘が夜中に怯えて、“嫌だ!!、嫌だ!!、行かない!!行かない!!”と泣き叫んだといい、翌朝、息子夫婦がげっそりとしていたことです。いわば「耳無し芳一」現象になったとのことで、吃驚しました。 注、耳なし芳一(みみなしほういち)は、安徳天皇や平家一門を祀った阿弥陀寺(現在の赤間神宮、山口県下関市)を舞台とした物語、怪談。小泉八雲の小説『怪談』にも取り上げられている。 物語の粗筋 阿弥陀寺に芳一という盲人が住んでいた。琵琶の名手であり、特に平家物語の弾き語りが得意であった。 ある夜、和尚の留守の時、突然一人の武士が現われ、芳一は請われて「高貴なお方」の屋敷に琵琶を弾きに行く。 そこには多くの貴人が集っているようであった。芳一の演奏が始まると皆熱心に聴き入り、芳一の芸の巧みさを誉めそやしたが、壇ノ浦の戦いのくだりになると皆声を上げて泣き、感動した。芳一は七日七晩の演奏を頼まれ、夜ごと出かけるようになる。 和尚は目の悪い芳一が夜出かけていく事を不審に思い、寺男たちに後を付けさせた。すると芳一は一人、平家一門の墓地の中におり、安徳天皇の墓前で無数の鬼火に囲まれて琵琶を弾き語っていた。 寺の者たちは慌てて芳一を連れ帰り、和尚に問い詰められた芳一はとうとう事情を打ち明けた。 これは危ない、このままでは芳一が平家の怨霊に殺されてしまうと和尚は案じたが、生憎夜は法事で芳一のそばについていてやることが出来ない。そこで法事寺の小僧と共に芳一の全身に般若心経を書きつづり、芳一に今夜は武士が迎えに来ても返事をするな、と堅く言い含めた。 その夜、芳一が一人で座っていると、いつものように武士(平家の怨霊)が芳一を迎えに来た。芳一が呼ばれても返事をしないでいると、「声も聞こえない、姿も見えない。さて芳一はどこへ行ったのか……。」という声が聞こえる。 そして怨霊は、耳だけが闇に浮いているのを見つけ、「芳一がいないなら仕方がない。証拠に耳だけでも持って帰ろう。」と、芳一の耳をもぎ取って去った。 朝になって帰宅した和尚は芳一の様子に驚き、一部始終を聞いた後に芳一に詫びた。芳一の身体に般若心経を書きつづった際、小僧が耳にだけ書き漏らしてしまった事が原因であった。その後怪我は手厚く治療され、この不思議な事件が世間に広まって彼は「耳なし芳一」と呼ばれるようになった。琵琶の腕前も評判になり何不自由なく暮らしたという。 孫娘は母親の胎内にいたときの様子を詳しく再現するほど感受性が鋭いので、あるいは何かを感知したのではないかと思い、彼女に確かめると、“着物を着た、髭を生やした怖いおじさんが睨んで、手を引っ張った”という。 注(彼女感受性についてはこんなことがあります。 実は、彼女が産まれる前、名前を当初、正子に決めていましたが、姓名判断で画数がわるいということで、幸子に変えた経緯があります。 2歳の時、絵本に正子という子どもが出て来たとき、“これ、幸ちゃんね”というので、吃驚しました。 これを知っているのは、小生と、家内、息子夫婦の4人だけだったので、“誰かが教えたのか”と糺すと、誰も教えないという、そこで孫娘に、“どうして幸ちゃんが正子なの”と聞くと、“パパとママが話していたのを、お腹の中で聞いたの”という。 そこで、“お腹の中はどうだった”と聞くと“暖かくて気持ちよかった”という。小生、“どうして出てきたの?”“もういいよ、という声が聞こえたの”というので、“誰が云ったの?”と聞いても、“いっちゃだめなの”と、それからいくら問いただしても口をつぐんしまいました。 しかし、こういうことは、不思議なことでも、特殊な能力でもなく、横浜の産婦人科医調査で“2〜3歳の幼児の3割に胎内記憶、鮮明に語る”ということで実証されています。 子どもは胎児の時、既に一個の人間であり、意識がある。だから、胎教の重要性と母親の精神的安定性が大切だということが解ります。妊娠中絶などもってのほか、妊娠中の夫婦喧嘩もすべきでなかったと、小生、反省しましたが既に遅しです) その日は光秀の居城があった近江の坂本へ行きました。叡山の登り口でもある坂本は不思議なところで坂本城跡地、西京寺(当時光秀の叔父が住職をしていた関係で、遺体を引き取り荼毘にふし、墓をたてた) 秀吉の出生地だとされる日吉神社(秀吉の幼名、日吉丸はこれに因んだといわれる)
特に東照宮、これが“光秀ゆかりの坂本に何故あるのか?”、しかも、“光秀を滅ぼした秀吉の由縁の日吉神社に隣接しているのは何故か?”、“家康の政治顧問、東叡山の創始者、日光東照宮の設計者、天海僧正の来歴と何か、関わりがあるのか?” など、ここでも、推理と謎解きの面白さは尽きませんでした。 注、天海僧正は、江戸時代から、山崎の合戦で逃れた後、家康の庇護を受け、政治顧問になった光秀の成り変わりだと囁かれていた。 江戸時代の歴史書{明智旧稿実録、美濃史、国史実録、醍醐随筆など}は、光秀の非業の死を否定、光秀に酷似の影武者がいて、光秀の身代わりになり、本物の光秀は比叡山に逃れたという。 それに光秀が着用していた鎧は鉄砲玉も弾く、堅固なもので、巷間伝えられる光秀に重傷を負わせた、百姓風情の竹槍などで、突き刺さるようなものではな。 叡山では、光秀は、信長の焼き討ちに極力反対し、貴重な宝物や、僧侶達をを避難させた恩人として崇められていたため、匿ってもらえた。その後、比叡山で修行を積み天海僧正に変身した。 また、3代将軍家光の乳母で絶大な権力を誇っていた春日局が天海僧正と初めて会ったとき“お久しぶりでございます”と平伏したことである。春日局は天海が光秀であること見抜き、挨拶したというもの。 春日局は光秀の家老斉藤利光の娘で小さいとき光秀に可愛がられたという逸話があり、当然光秀の顔を知っていた。 さらに、坂本にある家康の廟所、東照宮は日光にあるものより2年早く建立された。覆面の軍師として、家康の意を汲み、家康の死後、宿敵秀吉の生まれ故郷“日吉の里、坂本”の監視体制をとったものと考えられる。 決定的なことは、光秀は大永6年(1,526年)生まれ、山崎合戦で横死したとされる当時の光秀の年齢は57歳、その後生き延びて、天海が死んだ寛永20年(1,643年)までの61年を加算すると、天海の死亡時の年齢118歳とピッタリ一致する。(天海の前半生は不明、しかし、彼が110歳以上の長寿を保ったことは{天海僧正諡号記}に明記されている) このように、光秀、天海僧正説は文献などでも、説得性があります。 そこでの話、日吉神社に、秀吉が天下取りの記念に、というより、生まれ故郷に錦を飾るかのように、寄進した日本最古の石橋(当時は技術的にも建造は難しく、また費用も莫大なものだった)がありますが、そこを渡ろうとしたとき、また孫が、“向こうに怖いおじさんがいる”と泣きながら逃げ出したので中止しました。まさに、今、霊視能力で人気のスピリチュアルカウンセラー、江原啓之バージョンでした。
何となく、心身冷え冷えとし、薄寒いので、熱い蕎麦でも食べようと、かねてからの念願だった日吉大社の門前にある、創業300年、「鶴喜蕎麦本家」へ飛び込みました。(坂本行きの最大の目的です) 惹句によると、「{鶴喜}は、最初、木炭商(鶴屋)だったが、先祖からの蕎麦打ちの秘法で知られ、延暦寺の賓客のもてなしのため、頼まれ出仕し蕎麦作るのが慣例になり天保(1,830年)七代前の{鶴屋喜八}が坂本の町に店を開き鶴喜と呼ばれるようになった。引き続き延暦寺のご用を承り、名字も延暦寺の{延}をいただいて「上延」を名乗った。 店の建物、総二階木造{重文}、建物正面に掲げられている木の額「東宮殿下(後の大正天皇)賜御買上之栄」は、大正天皇が、滋賀県で参謀演習の際、“是非食したい”といわれ、献上したところ“美味だった”とご満悦、お帰りには、明治天皇へお土産としてお持ちになった。依頼、宮中の年越し蕎麦は鶴喜が納入するのが習わしとなった。
小生、元来、霊魂とか、心霊現象とか、非科学的なものは信じない達です、宗教心も信心も極めて薄く、神社、仏閣など歴史的建造物としては興味はありますが、礼拝の対象ではありません。 ところが、今回の旅では、世の中、人知で計り知れない現象が存在するかも知れないと云う気になりました。 また、改めて「パスカルの賭け」を考えました。 17世紀、フランスの哲学者で、数学者でもあったブレーズ.パスカルは、なぜ神を信じなくてはいけないいかについて、次のような問いを投げかけた。 可能性は二つ、「存在する」「存在しない」選択肢も二つ「信じる」「信じない」、この組み合わせの結果は重大だといっている。 というのは、もし、「信じない」を選択していると、その人の死後、「神が存在していた」ら、しまったと悔やんでも、もう遅い。取り返しがつかないことになる。最期の審判で確実に地獄行きの切符を手にすることになる。 しかし、「信じる」を選択しておけば、死後、やっぱり「神が存在していた」となったとき、悔やんだり狼狽したりしなくて済む。それに、例え「神が存在していなかった」としても、最後の審判もないわけで、別に損はしないだろう。(注、損が全くないというわけではあるまい。賽銭や法事、神事などに費用はかかる) だから「神を信じる」に賭けておいた方がいい(地獄に堕ちなくても済む確率が高くなる)というもの。 フランス人らしい皮肉ぽい、数学者らしい、ゲームの理論に基ずく功利的な見方ですが、一面真理です。 今回の怪事で、小生も信じる方に賭けようと思いましたが、待てよ、今更遅いのではないかと思い直しかけましたが、叡山で修業した、浄土真宗の開祖、親鸞の「悪人正機説」を思いだし、とにかく叡山に参拝し、罪障消滅を願うに如かずとドライブウェイを駆け上り頂上へ参りました。 注、「悪人正機説」とはどんな悪人でも、死ぬ間際に、本当に改心し、南無阿弥陀仏と唱えれば、今までの悪業は帳消しにされ阿弥陀が救ってくれるという、悪人には都合?のいいありがたい教え。 そこでの話、叡山で孫娘の手を引いて歩いていたとき、孫娘がとある寺の前「松禅寺」で、小生の手を強く引っ張るので、引っ張られるままに寺の中に入ると、庭にある灯籠を指さしました。 恐る恐る見ると、灯籠には{慶長20年、奉寄進主光秀}彫ってあり、明らかに、光秀寄進の石灯籠です。 しかし、慶長20年(1,615年)といえば、光秀が山崎合戦で敗れ、横死とされている年から、34年後です。しかも夏の陣で淀君、秀頼自害し、怨敵豊臣家滅亡の年です。 やはり光秀は生きていた、豊家滅亡を祝して、灯籠一基、光秀の名前を堂々と明記して、寄進したのではないか、その怨念の深さを考え慄然としました。それに、何故孫娘がここへ導いたか不思議です。やはり光秀の血筋ですかね? と、まあ、今回の旅は、歴史あり、心霊スポットあり、美味あり、なかなかエキサイティングでした。 今年の秋は、小生の遠祖の地、明智へ孫娘を連れて行くつもりです。彼女がどんな反応を示すか楽しみです。 < ききみみずく >
|