対馬神社探訪 (第1日目)
平成13年7月6日(金)終日小雨

比田勝の豊崎神社
小船越にある阿麻氏留神社
阿麻氏留神社の拝殿
阿麻氏留神社の神殿
小船越の地形
小船越の解説板
小船越を越えると西漕手浦に出る
巨木の化石を思わせる岩肌
玉の井
玉井の出会いの解説板
磯良恵比寿(3柱鳥居)
和他都美神社の前左手にある
和他都美神社
 昨夜23時丁度に博多港を出航したフェリー「あがた」は、予定通り4時過ぎに比田勝港に到着。こんな時間に下船してもどうしょうもないと思うのだが、みんな下船してしまった。7時まで船室で休んでもいいというので船に残る。
 7時に起こされて下船。こんな時刻では、ホテルや旅館は開いているわけもなく、待合室のロッカーに荷物を預け、ウエストバッグとカメラにコウモリ傘だけという身軽な出で立ちでバスセンターに向かう。
 6日、7日の予定は全然立てていない、というより島の交通機関の状況等が分からないので、予定の立てようがなかった。
 バスセンターに行く途中、金毘羅宮と恵比須宮と併記した木製の鳥居があったが、通り過ごす。
 幹線バス(厳原に南下する国道を走る)の1番は8時40分。1日に3本しかない。
 厳原まで2時間35分、3,330円だ。この島は6ヶ町あるだけあって広い。いや長い。
 バスセンターの所長にいろいろ尋ねた挙句、今回の目的の1つであった美津島町の小船越にある「阿麻氏留神社」(対馬の観光地図に載っていない)を最初に訪ね、歩いて北上、豊玉町の和多都美神社に参拝することにして8時40分のバスに乗ることにした。空き時間を利用して近くの豊崎神社に詣る。
 バスは8時40分定時に出発。乗客は数人。バスは時折入江を走るが殆どは山中ばかりで風物が楽しめるということにはならなかった。
 小船越に10時40分に到着。バス停の反対側に鳥居があり、階段の上にかなり古く天井もない質素な社が建っていた。
 道路横の鳥居の側には皇紀2600年の立派な記念碑が建っていたが、「阿麻氏留神社」に付いては、地元の人も、バスセンターの人も知らなかった。悲しいことである。戦後の学校教育のせいかもしれない。古代史探訪の貴重な資料なのに。
 「阿麻氏留神社」は、10月(神無月)に八百万の神々が出雲に集まることになっているが、みんなが集まったころを見計らっておもむろに腰を上げるという、神様の中でも最高位の人が祀られていると読んだことがあるので、祭神は誰か調べたかったが、境内には何の説明板もなかったの残念であった。
 バス停の近くに「史跡 船越」の解説板があった。それによると『東西から入江が入り込み地狭部を船を曳いて越えた。ここは小舟が越えたので小船越。大きい船は大船越で越えた』とのこと。
 近くの店の人の話では、小船越には観光客が多いという。「阿麻氏留神社」も整備して観光資源にすればよいのに。
 店の人に「この近くにもう一つ神社がある筈ですが」と訪ねると「国道を少し登って中学校のところから左に入ると住吉神社に行けるよ」とのこと。すぐ近くかと思い気楽な気持で行ったが、かなり歩いて大きなアンテナ塔の近くまで行ったが、それから先の見当が付かず、引き返す。
 国道に戻ってみると、地図入りの案内板があり、神功皇后ゆかりの住吉神社まで2.6kmとあった。もう少し頑張って行って見るべきだった。観光地図には神社は主なものしか載っていない。全部とは言わないが、もう少し載せるべきではないか。
 山間を縫って北に向かう。
 切り取った岸壁の岩肌が面白い。なんという種類の岩だろうか。旧石器の矢尻や刃物になりそうな鋭利割れ方をしているが、ぽろぽろと脆い。屋根に石版を使った建物があるが(対馬独特の建物)同じ種類の岩なのだろうか。
 巨木の化石の切断面ではないかと思われるような、壁面もあった。
 浦底で丁度12時。食堂があった。朝食抜きで歩き回ったので空腹の極みであった。チャンポンの辛いこと、しかし腹の虫は収まった。
 再び北上を続ける。やがて道標があり「左、和多都美神社4.3km」とある。1時間以上かかって着いたところに「玉井の出逢」の解説板があり、海幸彦と山幸彦の神話の地だとある。山幸彦の姿が映ったという「玉の井」という井戸もある。
 山幸彦がしばらく逗留した龍宮城の姫、豊玉姫命にちなんで豊玉町というとある。「山幸海幸」の話は日向の地のことではなかったかな。
 5本ある鳥居の内2本は満潮時には、水中に立ち「海宮」の名に相応しい情景となるそうだが、生憎と干潮で鳥居は岡に上がっていた。
 和多都美神社の入口に、鱗状の亀裂の入った石が3本柱の鳥居(三柱鳥居)の真ん中に頭を出しており磯良恵比須となっている。境内にもう一つ三柱鳥居があった。
 祭神は彦火々出見尊と豊玉姫命である。彦火々出見尊は山幸彦のこと神武天皇の祖父に当たる。豊玉姫命は海神大綿津見神の娘であり、山幸彦の妃。彦火々出見尊が兄海幸彦から借りた釣針をなくし、捜し求めに出て、海神の宮殿で豊玉姫命に出会い、結婚して、ここで3年を過ごしたといわれる。
 豊玉町の北隣の峰町に海神神社があり祭神は豊玉姫命となっているが、和多都美神社との関係は・・・
 来たときとは別な道を通り国道に出て、仁位のバス停に着いたのは17時前。
 観光案内書に載っていた比田勝のホテルプラザに電話を入れて宿泊を予約する。
 17時50分、ウトウトしていたところを起こされてバスに乗り込む。
 比田勝のバスセンターに着いたのは19時20分。街を見物しながら予約していた「つしまホテルプラザ」に行く。
 ホテルプラザは、2階が食堂兼フロントで客室は3階。家庭的な雰囲気の宿であった。7日の夜は一応満席だが、相部屋でもいいというお客がいるので、相部屋でよければ泊まれるよというのでお願いした。
 ジョッキ1杯、焼酎1杯、新鮮な魚の天ぷらを肴にボリュウムたっぷりの食事。
 長逗留の人達がいる。工事関係で福岡辺りから振って来た人達のようだ。
 部屋に戻り横になりそのまま寝込んでしまった。

[注]:神無月について、古代日本正史(記紀以前の資料による)原田常治著よりの解説を抜粋する。
 神無月というのは、10月に出雲大社へ日本中の神様が集まって会議をやる。それで神様がみんな留守にするので神無月という。これは、ずいぶん古くから10月を神無月と称したという記録がある。
 この神無月について調べたら、武御名方が、相続争いに敗れて、出雲を立ち退いたあと、幼い事代主に代わって、大日霊女(後の天照大神)の依頼で、猿田彦が出雲の政治を行った。
 その時、出雲、隠岐の186ヶ村の村長(神)を集めて、今の佐太神社の所で、民主政治の会議をやった。それが毎年10月に行われたので、出雲、隠岐には村々に神が居なくなるというので10月を「神無月」といった。そして、佐太神社を神在り社と呼んだ。
 それを日本中の神様にして、場所も出雲大社にすり替えたのは、400年余もたった、出雲大社を造った時からである。


 猿田彦が出雲の政治を行ったというのも初耳である。
 原田常治氏の説はきわめてユニークであり、魏志倭人伝を素直に読んで邪馬台国から狗奴国までの21ヶ国は、現在の鹿児島県の諸島であるという。また、「素佐之男のつくった邪馬台国、日向の都は、その後、素佐之男時代から大国主時代、大日霊女女王時代、豊受女王時代と4代およそ120年間ぐらい栄えた。」という。

和他都美神社の拝殿と神殿   境内にある3柱鳥居