対馬神社探訪(2日目)
平成13年7月7日 終日曇り

韓国展望所入り口の門
韓国展望所
朝鮮国訳官使殉難の碑
大地主神社
大地主神社の神殿
久頭乃神社
久頭乃神社の相撲取りの石像
船志の小屋
 本日のスケジュールはまだ未定。雨は上がっているが、何時降り出すか分からないような空模様。
 食堂に降りると満席に近い状態で、食堂の人はてんてこ舞い。これでは食事にありつけるのは何時のことか分からない。朝食をキャンセルして、カメラとコウモリ傘という身軽な出で立ちで外に出る。
 自宅では、深夜の2時3時に夜食をとって寝ることが多く、そんなときは朝食抜きである。昨夜は満腹の状態で就寝したので朝食抜きでも大丈夫だろう。
 バスセンターの所長にいろいろアドバイスを受けて、取り敢えず、バスでマラソンコースを通って島の西北端の韓国展望所でおり、見物したあとマラソンコースの残り半分(約9キロ)を歩いて比田勝まで戻ることにし、鰐浦線の8時35分発に乗る。乗客は数人。ここのバスは、停車場でなくても乗降できるのがいい。
 韓国展望所入口で降ろしてもらったら乗客は1人もいなくなった。上り口にある韓国風の大きな門をくぐり六角堂の展望所に上る。遥か北方に山影が見える。さては韓国かと望遠鏡をのぞけば、大きな貨物船であった。あとで聞いたところによれば、秋にならないと韓国は見えないそうである。
 近くでは岩礁に波飛沫があがり絶景である。展望所の近くに朝鮮国訳官使殉死の碑がある。
 展望所から海岸まで一気に下る。海辺を歩き大浦で国道382号に出る。
 やがて左手杉林の中に神社を発見。鳥居の額束には「大地主神社」とある。初めてお目にかかる名前の神社。地の神を祀っているのだろうか。
 バスセンターに戻ったのは10時50分。
 午後は舟志・五根緒線で神社前まで行き歩いて帰ることにする。
 バスの時間はは12時50分。約2時間の間がある。取り敢えず昼食だと食堂を探す。港の方に戻り金毘羅宮の近くに食堂があった。親子丼(650円)が美味かった。
 金毘羅宮に登った。山の中腹に小さな祠が1つ。鳥居には金毘羅宮と恵比須宮の名前があったのに、併祀されているのだろうか。
 舟志・五根緒線12時50分に乗り込む。バスセンターの所長も運転手も神社の名前を知らないという。
 神社前で下車。20〜30m行くと杉林の中の小さな川のほとりに鎮座まします。神社の名前は久頭乃神社。2の鳥居の額には「久頭神社」と乃の字がが抜けているが、このようなことはよくある。
 四角柱の小さな石灯籠が社を取り囲んでおり流れ式の神殿がある。祭神は不明。拝殿の前に相撲取りが取り組んだ石像が左右にあり、ユーモラスである。文政9年(1826)と彫られた灯籠がある。厳原町豆酘に多久頭魂神社という似た名前の神社があるが、如何なる関係か。
 比田勝に向かって歩き出す。集落の中に、床が高く窓がなく黒っぽい建物が数棟並んでいる。立ち話をしている婦人に「この建物はなんですか?」「倉庫だよ」「何ばいれとっとですか?」「食べ物とか、衣類とか、農機具とか、いろいろ入れとっと」とのこと。新しい建物もあったが白木づくりで高床式で扉が1つしかない、この辺り独特の倉庫のようである。
 家の裏とか畑の土手に、大きな丸太を1m位に切って立て、上に蓋をしたようなものがある。なんだろうかと考えているうちに思い出した。観光案内に載っていた蜂蜜を取るための蜂洞だ。畑仕事をしていた人に声をかけた。「ここは舟志(しゅうし)というが、蜂洞で取った蜂蜜は特産品になっている」「丸太をくり抜いて周囲に密を塗っておくと蜜蜂が寄ってくる」等と教えてくれた。
 崖の下に虎供養塔と彫られた石塔があった。対馬に虎がいたのだろうか。秀吉の朝鮮出兵の折り、加藤清正が虎退治をした話があるので、対馬にも虎がいても不思議ではないが。
 通りすがりに宗像神社を発見。宗像とあるからには祭神は、宗像三神といわれる多紀理姫、多岐津姫、市杵島姫を祀っているのだろうが、由緒書き等がないので不明。文久2年(1862)の石柱が立っていた。
 矢印に添って左に入る。こんもりとした小山が朝日山古墳。頂きには霹靂神社がある。朝日山古墳群や霹靂神社懸仏の説明はあるが神社についての説明がないので、由緒や祭神は不明。神社についても解説があってしかるべきだと思うが、どうだろう。
 鳴滝の矢印に従って左手の山に入り込む。暫く行くと雑木林の中の小さな流れがあり、側に木造の祠があった。鳴滝神社だ。更に進み手入れされた路を降りると幅広い滝があった。これが本島第1といわれる鳴滝だ。滝の音が谷に鳴り響くので鳴滝という。
 時刻は既に3時半になっていた。
 ホテルプラザに戻った時は4時半を過ぎていた。
 シャワーを掛かっていると相部屋の主が到着。下県郡の阿比留さん。66歳。毎回、3kmに参加しており50歳以上の部で、昨年は2位だったがずっと優勝している由。50代の若手を抑えての入賞だから凄い。
 昨日同様、ビール1杯、焼酎1杯。島のご馳走をでたらふく腹に詰めると、昨日、今日とそれぞれ約20kmを歩いたのでドット疲れが出た。阿比留さんには、失礼して9時には就寝する。

朝鮮国訳官使殉難の碑:元禄16年(癸未・1703 朝鮮粛宗29)2月5日(旧暦)釜山を出帆した韓天錫同知以下108名の朝鮮訳官使一行は、夕刻鰐浦入港直前急変した破天荒の嵐に襲われ、対馬藩をあげての救難対策も空しくこの眼前の海で全員が痛ましい死を遂げた。漢陽(ソウル)をはじめ各地から選任されたこの使節は、正副両使と上官28名・中官54名・下官24名。卒去した宗義真(第3代対馬藩主)の死を弔い、新藩主宗義方(第5代)の襲封を祝賀するための国際外交使節団であった。
 江戸時代、厳然とした鎖国体制の下、日本が唯一正式な国交として維持したのが朝鮮との外交であった。それは幾多障壁を越えながら、両国間の信に支えられ善隣外交の形で堅持された。この外交にあたり絢爛として朝鮮から江戸まで往復した通信使と異なり、対馬の府中(現厳原)まで往復した一行100名ほどの国家使節それが訳官使であった。幕府から日朝外交における日本側の裁量権が対馬藩に委ねられていたことを考えると、真の善隣外交の輪を回したのはこの使節であったともいえる。訳官使の対馬来島は、江戸時代李朝の資料に記されただけでも51回の多きに達している。猛り狂う風と波に消えたこの役官使船には、4名の対馬藩士も乗船、やはり非常過酷な天運をともにした。
 今高まり行く日韓交流の新しい潮流の鳴動の時にあたり、両国間に未来永劫に横たわる「誠信之交隣」の理念に殉じた一行の魂への思いを新たにし、ここに112個の霊石をもって碑を建立し永く顕彰するものである。  


蜂洞   鳴滝

蜂洞 朝日山古墳群 朝日山古墳群遠景