ひょんなことで宍喰ミュージックマラソンに参加することができた。
平成7年9月のことである。
16日(土)、徳島県南部の宍喰(ししくい)町で第3回目の母方の従兄弟会があり参
加した。
従兄弟たち夫婦が、総勢26人、遠くは札幌市からも参加があり賑やかな宴会でカラオ
ケ大会もあり大いに盛り上がった。
幹事を努めている西岡正彦さんの案内で、翌17日に“宍喰ミュージックマラソン(3
キロ、5キロ、10キロの3種目)”があることは知っていたが、従兄弟会をほっといて
参加するのもどうかと思ったし、帰り便の時間も分からなかったので申込んでなかったが
何時ものようにトレパンやランニングシューズは持参していた。
従兄弟の中にマラソンのスタート、ゴールとなる小学校の先生(西田益良)がいたり、
大会事務局に懇意な人がいる従兄弟の嫁(西田美代)がいたりで、他の従兄弟たちも「走
らんの」という。美代さんが電話で申し込んでくれた。
そのようなわけで、まったく考えていなかった宍喰ミュージックマラソンの10キロの
部に参加することになった。
10キロのスタートは10時40分。時間があるので、母の実家で、戦後引き上げた後
、半年のま厄介になっていた櫛川の叔父の家を尋ねたり晴子さんの実家に寄ったり。
母が亡くなって以来の訪問であった。
西岡や西田の墓に参ってマラソンの会場に戻ったのは10時20分。 益良さんが確保
してくれたゼッケンを付け、宍喰駅のトイレに行く途中、何とHRC(福岡市の東公園ラ
ンニング倶楽部)の佐伯さん夫妻に出会った。
スタート地点で、博多から同じ新幹線で来た西方さん(72才)グループと出会う。
仲良しグループ7人で5キロに参加するとのこと。
こんな片田舎(いや、どうも失礼!)のマラソンにわざわざ遠方から来る人もいるのか
と感心する。
10時40分、号砲一発。ランナーたちは一斉に走りだす。
広くない町並みには老若男女が出て声援を送ってくれる。
町中を過ぎると早くも登り坂となる。昨夜は宿で存分に飲んだし、その後、海部まで飲
み直しに出たりして寝床に付いたのは12時近かった。そんなわけで、どんな走りになる
か気掛かりであったが、アルコールは全く残っていないようである。
左手には、台風の余波で大きな白波を見せている太平洋が果てし無く続いている。
海岸線は岩場もあり、時期には釣り客で賑わうとのこと。
3キロ地点から下り坂。この坂の中間で西岡正彦さんをはじめ奥の登美子さんや弟の佶
、うちのおかみさん達が待ち受けていた。
三叉路に行き当たる。右に折れると甲浦港(高知県)、左に曲がって下り切ると、もう
1つ登りがある。この峠を越えると橋を渡って竹ケ島である。
宿泊した「みなとこ荘」から見えていた島である。
台風の余波で波はかなり高いが橋のたもとにサーフィンが2つ3つ見え隠れしている。
スタートしてすぐストップウオッチのボタン操作を誤って正しいタイムが分からないが
4キロ地点からの1キロの走行時間は5分01秒と好調である。竹ケ島で折り返しての1
キロのタイムは登りにもかかわらず5分23秒。まさに絶好調。
応援団はさっきのところで待っていた。大きな登り坂で前を行く高校生2人にじわじわ
と迫り峠では遂に追い抜く。後はゴールまで下り基調。
快調に飛ばして町に入口付近で、再び応援団の声援を浴びる。通りは老若男女の町民が
出て盛んに応援してくれる。笑顔で応えながらゴールに向けて一目散。
途中、久美さん夫妻が応援してくれた。
ゴールでは、益良さんがカメラを構えて待っていてくれた。
順位は282位(10キロのエントリーは445人)
思いがけず『宍喰ミュージックマラソン』に参加できて、まことに楽しい従兄弟会であ
った。
参加者名簿によると福岡県から9人のエントリーがあったのには驚いた。西方さんなど
は数回の参加だとか。人気のある大会らしい。
後日覃
益良さんに聞いた、ミュージックマラソンの由来の概要は次の如し。
宍喰出身の歌人吉田テフ子を讃えてミュージックマラソンとしたという。
吉田テフ子さんは、「お山の杉の子」の作詩者である。
年配の方は小学校の唱歌の時間に歌った「お山の杉の子」を覚えておられるでしょう。
「昔々の その昔 椎の木林のすぐそばに 小さなお山があったとさあ あったとさ」
この歌を作詩した吉田テフ子さんが、宍喰の出身だった。吉田テフ子さんは、「お山の
杉の子」1曲だけを残して、その後の消息は知られていない。
「昔々 その昔・・・・」
子供の頃、よく歌ったことを覚えている。
福岡に帰って暫くして、何気なく見ていた西日本新聞に昭和の尋ね人吉田テフ子という 記事が目に止まった。宍喰ミュージックマラソンに参加して、その由来を聞いていなけれ ば、目に止まることもなかっただろう。
西日本新聞(平成7年9月29日朝刊)の要約は次のとおりでる。
「大正9年に宍喰で生まれた吉田テフ子は、徳島女子師範学校を卒業し、小学校の先生を
経て実家に帰っていた24才の時、“日本少国民文化協会”が昭和19年に募集した“少
国民歌”の歌詞の公募に応じた「お山の杉の子」が見事に1席となり、佐々木すぐるさん
が作曲、安西愛子さんが歌い軽快なメロディーに乗って一気に広まった。しかし、1年を
経ずに終戦、戦争協力歌の烙印を押されて歌えなくなった。
吉田テフ子は、昭和26年
戸畑市(現北九州市戸畑区)の市議会議員に立候補して当選。
昭和33年には、作家になりたいと上京。昭和48年、肝臓がんで死去。生涯独身だっ
たという。