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大村湾一周ウルトラマラソン
(平成12年2月11、12日) |
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2月11〜13日の3連休は天候に恵まれマラソン日和。大村湾一周ウルトラマラソンが開催された。
コースは、嬉野から俵坂峠まで約5kmの上り坂、峠を越えると下り坂が6km続き東彼杵町で大村湾に出る。コースを右に取り、ハウステンボス、オランダ村、時津と大村湾の西海岸を周り、長崎まで南下、そこから旧長崎街道で諫早、大村、東彼杵と東海岸を北上し、最後は6キロの上り坂と5キロの下りを下って嬉野にゴールインする160km。
西海岸はハウステンボスからオランダ村までアップダウンが多く、ランナー泣かせの難所である。
一昨年は13人走って完走は3人、昨年も13人走って3人完走という厳しさである。
正規のスタートは11日の午後8時、制限時間は24時間。13人が出走。
今年は初めての試みとして早めのスタートが認められて6人が午後4時にスタートした。
先発したのは、埼玉の太田さん、東京の高田さん、愛知の加納さん、福岡の矢野さん、同宮崎さんと私見野の6人。大会に参加を予定していた福岡の仲道さんがサポートに切り換え自家用で早出組をサポートしてくれることになった。
時間的に余裕があるので、コースの側にある史跡を探訪。先ずは、長崎県との境界になる俵坂峠近くにある俵坂関所跡で記念撮影。正規の時間にスタートすると、ここは真っ暗で案内標の矢印を横目に駆け抜けることになる。
峠を越えて少し下った菅無田郷にある千部塔で撮影。(注1)
東彼杵の交差点を右折すると左に整備された、ひさご古墳と言われる前方後円墳がある。ここでも一枚撮影。海岸寄りの道路を西に進むと、小さな彼杵川の辺に万部塔がある。右手の岬に大きな石碑が見える。「日本26聖人乗船場跡」の碑である。(注2)
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先発組 左から
仲道、加納、宮崎、矢野、太田
下段左から見野、高田の皆さん |
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嬉野の名産 大きな茶壷 |
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俵坂の関所跡 |
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| 長崎にしかない千部塔 |
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ひさご古墳をバックに |
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元禄船着場跡 |
少し先に、小さな入り江があり“元禄船着場跡”の石標がある。ここから時津港への渡しが出ていたらしい。ここでも一枚撮影する。
205号線に出てコースに戻る。旧平戸街道。仲道車と合流する。次第に皆から遅れてしまい、一人ぼっちとなる。夜空が美しい。7夜の月明かりで小さい星は姿を消し、東の空にはオリオンが輝き北には北斗七星が横たわっている。20km辺りで遂に車に乗る。
ハウステンボス駅の近くのコンビニの駐車場で、皆を待っている間、ポンポンと音がして花火が挙がる。
皆に追いつかれるまで走ってみようと、今度はリュックを預けウエストバッグを身に付けて走りだす。昨年はここから、バイオパークまでのアップダウンを嫌ってリタイアしてしまった。
やがて前方に、赤く点滅している柱が見えてきた。月明かりに3本の高い柱が見える。これは針尾無線塔。日本海海戦のとき「敵艦見ゆ」と連合艦隊に無線信号を発したところ。海上自衛隊の所管になっているが既に使用されておらず、撤去するとか、したとかいう記事を呼んだことがあるが、まだ残っていた。
後ろを振り向くと、ハウステンボスの明かりが見え、そこからオレンジ色の街路灯が延びている。有料道路の明かりだ。右手前方が明るく見えてきたが、有料道路の入り口(出口)のようだ。昨年もあったのかな。記憶に残っていない。
やっと西海橋に到着。この橋が完成してしばらくは自殺の名所となっていたが、最近は話題にも登らない。公園のトイレを借りる。
22時半頃、7夜月は沈んだが満点の星明かりで懐中電灯はいらない。
長い坂道を上り詰めると、広場があり時計台が零時20分を指している。オランダ村の玄関口だった。腰の痛み酷くなるばかり。
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バイオパークの入り口でサポートしている仲道車に辿り着いたら、まだ高田さんたちが休んでいた。腰の痛みが極限になったのと、ハウステンボスからのアップダウンの多い所を走ったことに満足して再びリタイア。仲道車に乗る。
次のサポート地点で待機していると、素通りした人がいる。正規スタートの山本さんだった。
山口さんの車に酒井さんが同乗したサポート車が追ってきた。山本さんが独走しているとのこと。2番手は千葉の星川さん。その後ろから昨年の優勝者恵村さん他が、昨年のペース以上で追っている由。
高田さん、太田さん、加納さん、宮崎さんは堅調、矢野さんがすこし遅れ気味。仲道サポート車は、先発組の最終ランナーの通過を待って、約5キロ先に移動した待機する。これの繰り返しだ。
4時過ぎ、正規スタート組の2番手、恵村さんと金子さんがやってきた。
正規スタート組をサポートしていた山口車は、トップの山本さん、星川さんを、追って行き、仲道車が、恵村さんたちから高沢さんまでをサポートすることにした。残りは宮崎車にお任せ。
時津についたのは6時頃だった。加納さんがリタイア。仲道車に収容。
長崎駅前の吉野屋(牛どんの)到着。既に山本さん、星川さんは、出発した後。恵村さんと金子さんが食事をとっている所に割り込んで仲間入する。
高田さん、太田さんも到着。宮崎さん、矢野さんも次々に到着。
石田さん、佐藤さんが宮崎車で到着。ここからバスで嬉野へ戻る由。宮崎さんはここでリタイア。矢野さんは行けるところまで走るとのこと。
時津過ぎでかなり疲れている様子だったので、到着が遅れると予想していた高沢さんが意外に早くやってきた。食事もせず短パン姿になって飛び出して行った。
後方では山下さん、原さんが頑張っているらしい。
トップの山本さんと星川さんは山口車、先発組と恵村さん、金子さん、高沢さんは仲道車、後の山下さんと原さんは宮崎車と手分けしてサポートすることにしそれぞれ出発する。
JR西諫早の先で左折して34号線は北上しているが、コース図によるとJR長崎線に沿ってJR諫早に出て、そこから今度はJR大村線に沿って北上し数キロ先で34号線に合流するようになっている。本コースで間違いやすいところ。
丁度、34号線の分岐のところに宮崎車がいて34号線を走るように誘導していたが、何人かはコース通りに走ったようだ。
鈴田峠で恵村さんに追いついたので、峠を越えたレストランの横に駐車してサーポートする。時は11時15分。
旧長崎街道の鈴田峠には国境石(弁慶の足形石)がある。
恵村さんを送り出した後、仲道さん、加納さんと3人でレストランに入り昼食をとり休憩する。
みんなを送った後、大村市役所前で待機。
軽く走って見ると腰の痛みは薄らいでいる。走りたくなった。13時25分に再スタート。しかし、5分も経たない内に腰の痛みは酷くなる。バンテリン軟膏を塗ってみた。
バンテリンは、昭和63年のサロマ湖100キロマラソンの時から使用している。膝の痛みには抜群の効果を発揮するが、腰の痛みには殆ど効果がない。 余り期待せずに塗ってみたら、今度は効きました。テレビのコマーシャルのようにすーっと痛みが和らいだ。
大村市と別れて東彼杵町に入る。千部塔を探しながら道路から海際の方に注して走る。ここの千部塔は明治初めの廃仏毀釈の際に「猿田彦大神」と彫り直したもので、当時を偲ぶ貴重な史跡である。前回撮った写真には、彫字がよく映っていなかったので、撮り直すべく探したのだが、地元の人やお巡りさんに聞いても、首を傾げるばかり。国道から外れて旧長崎街道に入り、街道筋の店で訪ねても分からずじまいだった。
千綿港から34号線に戻ると丁度反対側の歩道を、高田さんと太田さんが走っているのに出くわした。20メートル先を山本さんが走っている。追いつこうと頑張ったが、次第に引き離されるばかりであった。
東彼杵の交差点で追いつくと思ったらタッチの差で信号が変わりますます引き離されてしまった。
ここからは登り6キロで俵坂峠、峠を越えると今度は下りが5キロ続いて嬉野のゴールである。時刻はまだ17時前、歩いても門限の20時までには届くだろう。
峠を越えて走り出すと意外に足が軽い。下りは駄目だという山本さんに追いつき追い越して気持ちよく飛ばしていると膝が痛みだしたが何とか最後まで頑張った。
佐藤さん、山口さん、酒井さん、宮崎さんに拍手で迎えられてゴールイン。
19時少し前だった。
19時4分、高沢さんがゴールイン。
19時6分に山本さんがゴールイン。
後の2人はどこを走っているのやら。
トップでゴールインした佐世保の山本さんと、福岡の宮崎さんは帰宅。後の人たちは20時から一休荘で懇親会。
今年は男女別に優勝カップが用意されていた。武雄市の陶芸家山口さんの手製の陶器のカップである。完走賞、参加賞も山口さんによる陶器のメダル。
懇親会の楽しい雰囲気は写真でご覧あれ。
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| 山口さん手製の優勝カップを頂く高沢さん |
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山下さんから特別賞を受ける星川さん |
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あぁー うめぇ
と高沢さん |
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完走者一同
左上から高田、星川、恵村、金子
左下から太田、高沢、福岡の山本、原の皆さん |
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矢野さんと加納さん |
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原さんご夫妻 |
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| 太田さんと星川さん |
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佐藤さんご夫妻 |
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多久島さんと宮崎さん |
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| 福岡の山本さん |
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山下さんご夫妻 |
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金子さんと仲道さん |
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| 高沢さんと酒井さん |
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吉木さんと恵村さん |
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石田さんと高田さん |
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完走者とタイム(制限時間24時間)
| 山本 但 |
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19:50 |
| 恵村 泰尚 |
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20:41 |
| 星川 信貴 |
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21:04 |
| 金子 俊一 |
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21:46 |
| 高沢 芳子 |
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23:04 |
| 山本 祐治 |
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23:06 |
| 原 敏明 |
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23:42 |
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時間外完走者とタイム
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◆注1
千部塔については広辞苑にも記載がないが、千部会の解説がある。
万部塔についても記載がないが、万部について載っている。
★せんぶえ[千部会]追善や祈願のために同じ経を千人の僧が一部ずつ読む法会。1僧が千部読むこともある。千部経。千部読経。
★まんぶ[万部]万部経の略。−経[万部経]1人または万人で万部の経を読むこと。万部読経。
★ろくじゅうろくぶ[六十六部]回国巡礼の一。書写した法華経を全国六十六ヶ所の霊場に一部ずつ納める目的で、諸国の社寺を遍歴する行脚僧。室町時代に始まる。江戸時代には俗人も行い、男女とも鼠木綿の着物に手甲・甲掛・股引・脚絆も同色のものを用い、死後の冥福を祈るため、鉦を叩き、鈴を振り、或いは逗子を負い、家ごとに銭を乞い歩いた。六部。
長崎方面には六十六部塔が残されている。このことから、千部読経や万部読経を行ったときの記念碑か、又は村を挙げて巡礼に出た記念碑かも知れない。
いろいろな道路を走っているが、千部塔、万部塔は長崎街道でも長崎県内だけのようだ。
お寺の坊さんに尋ねても「さぁ」と言う返事。千部とか万部とか言うことは既に風化してしまったのだろうか。
◆注2
日本26聖人は、日本のキリスト教徒の最初の殉教者。
天正15年(1587)秀吉は耶蘇教禁止の令を発し、ついで宣教師及び教徒を捕らえ、慶長元年(1596)長崎の丘でその26人を死刑にした。うち日本人は20人。
◆史跡 俵坂関所跡
幕府の管轄を関所、藩の管轄を口留番所と呼んだので、ここも正しい呼び方は俵坂口留番所である。ここに番所が置かれたのは戦国期頃と伝えられているが創設の時代は不明である。江戸時代になると、この地が佐賀、大村両藩の藩境の要地で長崎街道通行上、この番所の存在は重要で特にキリシタンの取締りが厳しかったといわれる
記録によると番所の敷地面積二百余坪、建物は間口4間(7.2米)奥行き7間(12.7米)余の玄関構えで侍1名、足軽9名で警備監視にあたってい
大名行列御通行の折には番所役人たちが威儀を正して平伏し送り迎えしたといわれる
明治4年(1871)廃藩置県により廃止
嬉 野 町 教 育 委 員 会