第21回世界老壮マラソン大会
福岡走ろう会 見野 容(56才)

◆マラソン大会の日(昭和63年10月9日)
 ゼッケンNo W5501 。私のゼッケンは申し込みの手違いか受け付けのミスか、氏名の Mino Yasushi が Mino Yasuko で登録されていた。大会事務局で了解を得ているということであったが、係員は受け付けてくれない。大会本部に掛け合って「入賞しないこと」を条件に、やっと受け付けてもらう。
 福岡から参加したマラソンツアー(3泊4日組)の12名の内5名がフルに参加することになっているが、何処にいったのか見当たらない。フルの参加者は300名位だろうか。
 8時丁度、どよめきとともに道一杯に広がったランナーが動きだす。
 3キロ程走って道は左折し慶州市街に向かう。普門湖から流れ出た北川が右手を流れている。川には水は少なく広い川原にはコスモスが咲き乱れて美しい。所々にテントが張られているがキャンプでもしているのだろうか。
 黒のランニングに『在日韓国居留民団』と白抜きした隙のない走りをする人と並んだ。ゼッケンは5521。「何処から来ましたか。私は福岡からです」と話しかける。「東京からです」などと話している内にべらんめー調になる。江戸っ子らしい。
 昨日午後、見学した慶州国立博物館を過ぎると10キロである。47分15秒ややスピードが落ちた。
 暑くなってきた。交通量が少ないところでは並木の木陰を求めて右に行ったり左を走ったりする。
 15キロを過ぎると足がいやに重くなる。緩やかではあるが長い登り坂が続いていて歩き始めた人もいる。「お前も歩いたらどうだ、ムリするなよ」と悪魔のささやきが聞こえてくる。「何をいってるんだ、俺は100キロ走れるんだぞ」と自分にいい聞かせながら頑張る。
 1時間27分、折り返してきた先頭と擦れ違う。約1分後に福岡走ろう会のホープ永田氏と擦れ違う。「永田さんファイト!」と声援を送る。彼も手を振って応える。
 白のジャンパーに JAPANと赤で書いたスマートなユニホームを着た人達が数人ずつ所々に立っている。どこの応援団だろうか。「福岡県庁頑張って下さい」とメガホンの声援が嬉しい。
 20キロ、1時間40分。目標を2分オーバー。緩やかだった坂が急になる。佛国寺に登る道である。痛み出した腰を叩きながらNO5521氏に追いつく。
 折り返し点で1時間47分45秒。くたくたである。係員が「ナンバーナンバー」と叫んで手招きしている。赤の上に青マジックで5534と書いているので記録係が確認できずにいるらしい。立ち止まって「ごごさんよん」と指で数字を押さえながら読み上げてやる。「おーおーさむさ」と係員が確認して解放してくれる。
世界最古の天文台・瞻星台
 30キロを2時間37分、目標を9分もオーバーしては記録更新は絶望的となった。バンテリンを膝やふくらはぎにスプレーし完走を目指して万全を期す。
 博物館が見えてきた。32キロ付近か。NO5521氏は小さくなってしまった。200m以上離されてしまったようだ。左手前方に瞻星台(世界最古の天文台)が見えてきた。
 35キロのサービスエイドには巻寿司があった。一つもらう。残りは7キロ、あと一息である。抜きつ抜かれつしていたNO5521氏に再び追いついた。「あと7キロですよ。頑張りましょう」と声を掛ける。木立の間から対岸のホテルやコンベンションセンターが見える。NO5521氏はいつの間にか後れてしまったようだ。
 最後の直線コース、沿道には大勢の人達が声援を送ってくれている。ツアーの仲間を見つけて叫び声をだす。気がついてカメラを構えてくれる。両手を上げてポーズを作りながら、飾られたマラソンゲートに飛び込む。大時計は3時間54分57秒。又、係員から止められて「おーおーさむさ」とゼッケン番号の確認をうける。韓国の美しい少女から大きなメダルを掛けてもらい、しばし感激に浸る。
 NO5521氏がゴールインした。「御苦労さん」と労うと「貴方のお蔭ですよ」という。「フルマラソンは5回目だが初めて4時間を切った。貴方が引っ張ってくれたから」と大変喜んでくれた。「いや、こちらこそ」と固い握手をかわす。折り返し点から35キロまでは彼の背中をにらみながら一所懸命に追っ掛けた。4時間を切れたのは彼のお蔭である。
 「貴方は何時も同じペースで走っていた。素晴らしい」とNO5521氏。「貴方こそ端正な姿で見事でしたよ」と私。お世辞ではなく本当である。

    普門湖に 世界のランナー 競い合う

  
ゴールはすぐそこだ     ゴールインの瞬間

NO5521の洪さんと共に


◆大会の前日( 昭和63年10月8日)、かって学んだ小学校を訪問
 この日の午前中は自由時間となったので、小学校時代に過ごした方魚津を訪ねることにした。
釜山〜慶州地図
 ツアーの皆さんと一緒に朝食(日本食)をとり、栄子と2人で別行動をとり7時40分ホテルを出てタクシーで蔚山(ウルサン)に向かう。タクシーの運転手だけでは言葉が不安だというので、昨日釜山からガイドと一所に来たまだ幼さが残っている少女(実はカメラウーマンで李さんという)が同行してくれることになった。
 どの道路も両側にコスモスが咲き誇っている。李さんの話によると京城オリンピックのために主要道路には、コスモスをはじめ種々の花を植えたとのこと。
 所々に教会の建物がみえる。水のない大きな川の中の至るところで工事を行っている。取り入れを待っている稲の出来は良好のようである。山は松か雑木で桧や杉は見当たらない。右手の山は大きな岩が露出している。
 点在しているのは農家であろうか。屋根は切妻でもなく寄棟でもなく分水嶺の両端が反り上がっているのが特徴である。日本では古代建築物や寺院がそうなっているのを見掛けるが一般家屋には例を見ない。家は平屋で低く、周囲には煉瓦やブロック造りの塀が高く軒下が僅かに見えるだけである。風を防ぐためか、外敵の侵入を防ぐためなのか。その塀に濃厚な色彩を施しているのも特徴的である。
 丁度、通学の時間とあって緑の小母さんが旗を持って立っているところなどは、日本とそっくりである。
 東海南部線(鉄道)を右にしたり左にしたりしながら、車はやがて蔚山に入る。
 蔚山は現代グループの本拠地である。現代精工、現代管工の蔚山工場が並んでいる。丁度、出勤時で紺の制服を着た工員がバスを待っている。工場と工場の間には高層アパートが建ち並び緑は殆どない。現代工業高等学校もあった。企業が学校まで経営しているとは将に現代的である。アパートも工場も濃い塗装でケバケバしい。広告は日本のように外には突き出ていないが、色とりどりのハングル文字が大きく落ち着かない感じである。
 左手に湾が見えた。水辺近くまでアパートが建込んでいるが大きく弧を描いた先端の岩場、松林、蛤を掘ったり波乗りをして遊んだ海岸である。岩場は縞鯛やべら、くろを釣った所である。間違いなくその海である。それにしても砂浜は昔の面影もないように開けている。
花津国民学校
 登校途中の子供達に運転手が「学校はどこか」と尋ねる。
「この上だよ」細く急な坂を登ると形ばかりの門がありその奥に運動場があった。
 ここは、父が昭和16年から終戦になった20年の夏まで校長を勤めていた韓国人学校である。
 8時50分に到着した。運動場の向こうに鉄筋コンクリート造りの4階建の校舎がある。43年振りの感激に暫し浸る。
 現在の門の所に校長官舎があった。その北側に講堂があり生徒達と卓球をしていたことを思い出す。そのときは小さかったので台の周りに椅子を並べてその上に立ってラケットを振ったっけ。
 西側の土手の上から模型飛行機を飛ばして遊んでいた。その土手に終戦間際に防空壕を掘って空襲のサイレンが鳴ると皆で逃げ込んだ。
 周囲は整地されてコンクリート造りの2階建の民家が建っている。
右に座っているのが鄭校長、立っているのが鄭校監
 このまま立去るのは心残りである。とにかく先生会って見たいと李さんに頼む。
 校長室に案内されて名刺を交換する。もらった名刺には『花津国民学校 校監』とある。ここは『かしん』であったことを思い出す。
 私達日本人が通っていた『方魚津小学校』は少し離れた所にある。
 鄭校監が「貴方のお父さんがいたのは何年頃ですか」と日本語で話しかけてきたのには驚いた。なんでも大阪で生まれて終戦(彼らは開放という)まで大阪で育ち高知にも行ったことがあるという。校長も鄭さんである。韓国の姓の種類は元来249姓とも316姓ともいわれ、1960年の国勢調査でも411姓であったという。中でも多いのが金、李、朴、?、鄭の5つで全体の60%を占める。(韓国ソウルの本)
 校監とは教頭のことである。
 歴代校長の名簿はないか尋ねると1冊の綴りを出して調べてくれた。あった。ありました。『見野浩』の名前が。何とも言えぬ懐かしさのようなものが胸中を走る。李さんに写真に納めてもらう。
 校舎は後ろにも1棟あり55学級あるとのこと。蔚山を本拠地とした現代グループの発展で方魚津も工場と住宅が建並び人口も増大の一方だという。そういへば校庭の前も後ろも民家が建並んでいる。
 校長室で暫く雑談した後、方魚津国民学校を訪問するため辞を乞うたところ、校監が案内役を買ってくれた。校門まで送ってくれた校長と一緒に写真を撮ってもらう。
 嵐のとき、波しぶきに隠れてしまった防波堤、その突端にあった灯台は、小さな島につながっているように見える。「あの島は『なまこ島』といっていたが今もそうですか」と聞く。李さんが『なまこ』を説明していたが通じなかったようだ。『なまこ島』は日本人の間での呼名だったのかも知れない。
 ここで一句    『なまこ島 今は名もなき ただの島』
方魚津国民学校
 方魚津国民学校(国民学校とは戦争中、尋常小学校を改称したものだが、日本では戦後小学校と改名した。、韓国はそのまま使っているのだろう)の正面は43年前の面影が残っている。当時は石段だったと思うが今は車が登れるようになっているが急な坂である。
 校門を入って右側に二宮尊徳の銅像と戴奉殿があったが、そこにも4階建の校舎が建っている。尊徳像に代わって韓国武将の銅像が幾つも建っている。正面の校舎と併せて40学級あるという。校庭にあった大きなプラタナスの木はなくなっている。丁度、朝礼が終わって生徒達が教室に入るところだった。
 小学3年から6年まで、「よく学びよく遊んだ」想い出多い母校である。
 朴校長と校監に紹介されたが、若い彼らには日本語は通用しなかった。鄭校監と喧嘩でもしているような会話の後、歓迎の握手を求められた。裏にあった校長の官舎は今もあるそうだ。
 寂しい漁村であった方魚津も今は韓国経済の旗手、現代グループの住宅地に変貌し自然が残っているのは灯台の一角だけになっている。
 全校生徒で海洋訓練に行った海岸も住宅が建込んで、砂浜は狭くなり面影は僅かに岩場に残っている。チゲを背負った老人が通っている。懐かしい姿に慌ててカメラのシャッターを押す。昔は捕鯨船の基地であった長生浦の方には工場群が見える。造船所もあるようだ。
魚つり等して遊んだ想い出の海岸(左は妻)
 この海岸では全校生徒で手旗信号の訓練をした。小六の夏、2キロの遠泳があったが、ここがスタート地点であった。上級生が落伍して舟に上がるのを尻目に平泳ぎで完泳しゴールについて時は首が動かなかったが、岩下校長から朝礼のとき褒められた。岩場ではキスゴを泳ぎ釣したこともある。
 漁港では村上造船所の息子(義輝?)とよく遊んだ。一枚板に石油缶を置きそれに座って、細い棒で操って港の中を漕ぎまわったっけ。大きなジャンクが停泊していたとき、船員の手招きに応じて近付いたら、船内に引き上げられて中国人から南瓜の種をもらったこともあった。
 防波堤では、竿の先にタクワンを結んだ紐を付けて、石の隙間に垂らし蟹を釣ったものだ。停泊中の漁船をかけ巡って群になっている泳遊している鯵ごや鯖ごを錨針で引っ掛けた。
 冬には手作りのスケートをぶら下げて遠くの池まで滑りに行った。官舎の前の麦畑には毎朝のようにキジがきて「ケンケン」と鳴いていた。小学生時代の楽しかった思い出が走馬灯のように駆け巡る。
 灯台に行って見たいというと、鄭校監も同道したいという。花津国民学校付近から大きな道が岬まで延びている。昔は反対側に細い道があったように思う。途中で左に湾が見えた。ここもアパートが水際まで建込んで海水浴場は岬の中程に移っている。小五の夏の終わりにここの海岸で泳げるようになった、思い出の海岸である。
 岬の中程には公園もあって遠足の恰好の場所になっているそうだ。右側の中腹に小さな中学校があった。
 灯台は2基になっていた。突端の方が新しく背も高い。韓国には49基の灯台があるそうだ。3人の職員が家族と一緒に住んでいる。係員に灯がともるところまで案内してもらった。鄭さんも灯台に登ったのは初めてだと大変喜んでいた。
 岩場があり、よく見ると何か建っている。密入出国の監視小屋だという。碑のようなものは朝鮮戦争で亡くなった人の慰霊碑であった。
   
左は灯台守、隣は李さん   左は鄭校監、右が小生   後ろは泳ぎを覚えた海岸
 慶州東急ホテルに12時に集合するようになっているので、名残尽きない方魚津に10時55分、別れを告げる。鄭さんは「近いうちに日本に行くので、そのときは貴方の家に泊めて欲しい、ホテル代は高いから」という。「心から歓迎しますよ」と別れる。
 12時丁度、ホテルに到着したが、マラソンで遅れている人がいるとかで集合は30分延期になっていた。
 昼食は、慶州の街の料理屋で韓国風シャブシャブとキムチである。三井航空ツアーの福岡A組(4泊5日)、我々B組(3泊4日)が、同じ料理屋で会食、永田夫妻、結城夫妻と挨拶を交わす。サロマ湖100キロマラソンのTシャツを着た人がいたので声を掛けて、小野薬品の部長代理の浜さんと分かる。林副知事から聞いていた県庁OBの井上さんもいた筈だが、そのときは思い出せず、遂に挨拶する機会がなかった。
 固い床に長い飯台を並べて、薄い座蒲団を敷いたお粗末な感じの店であるが、実はオンドルで冬はポカポカと床から温かくなるのである。飲み物は各自払い。ビール1本2000ウオン。アルコール度は4%で軽すぎる。ちなみに日本のビールは普通のが4.5%でドライが5%である。
 肉は旨いがキムチや他の味は口に合わない。とかなんとかいいながらも、たっぷりと腹に詰め込む。
 午後は観光。仏国寺、国立博物館、古墳公園を見学。歩き廻ったので相当疲れた。
 夜も町のレストランで肉料理であった。明日に備えて早々に寝床に就く。

 
名物の朝鮮料理   前年、サロマ湖で一緒になった濱さんと

   
三井マラソンツアーの一行   古墳の前で   仏国寺の紫霞門



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